(3) 夜の帳の下で ― 名を偽る者たち
夜風が静かに吹き抜ける。
背後では酒場の扉が閉まり、喧騒と燭火の温もりが遠ざかっていく。
男はふと顔を上げ、静まり返った夜空を見上げた。
その瞳に、一瞬、言い知れぬ陰がよぎる。
――エレ。
その名が、脳裏をかすめる。
決して聞き覚えのない名ではない。
だが、どこか……釈然としない。
本当に、彼女の名は「エレ」なのか?
燭火に照らされ、柔らかな銀白の髪が揺れる。
仄かに帯びた青紫の輝きが、肩にふわりと落ちていく――。
この髪色は、あまりにも珍しい。
そして、彼は知っている。
かつて、ある少女も――同じ髪色を持っていたことを。
氷のような蒼い瞳。
それは、底知れぬ湖のように静かに澄み、
彼女が繕った冷静さを映し出していた。
だが――。
呼吸の乱れ、ほんの一瞬の躊躇……
それらは、彼の目を逃れることはなかった。
彼女は、隠している。
「エスティリア」という名に対する反応を。
心の揺らぎを。
確信に近い感覚が、胸の奥を掠める。
――彼女は、エレノア・エスティリアだ。
かつて、宮殿の回廊の果てに立っていた少女。
王族の血を引き、誇り高く、そして純粋だったはずの存在。
今はただ、舞台の上で人々を楽しませる舞姫となり果てた。
――運命とは、なんとも皮肉なものだ。
くすっと、声にならない笑みが漏れる。
わずかに俯きながら、左手をそっと耳へとかけた。
月長石のピアスが、淡い光のもとで揺れる。
青紫の輝きを、静かに放ちながら――。
あれは、かつて彼女が選んだもの。
ただの気まぐれだったのかもしれない。
だが、今の彼女はそれすらも覚えていないようだ。
――面白い。実に、面白い。
「カイン様、馬車の準備が整いました。屋敷へお戻りになりますか?」
角の向こうから、執事が静かに問いかける。
「カイン」――この名は、ただの仮初めにすぎない。
本当の自分は、この街には属していない。
男はわずかに首を傾げ、静かな眼差しで遠くの夜景を見渡した。
まるで、この街に渦巻く暗流までも見透かしているかのように――。
――サイラス・ノヴァルディア。
それが、本当の名。
だが今の彼は、あの少女と同じく、別の仮面をかぶり、
この都市の片隅で、己の素性を隠している。
静かに思考を手放し、最後にもう一度、夜闇に沈む酒場を見やる。
その瞳は、水面のように穏やかだった。
「帰るぞ。」
男の姿は、夜の闇へと溶け込むように消えていく。
しかし――
彼の計画は、まだ始まったばかりだった。
この街で交錯した、二つの名を偽る者たち。
運命の歯車は、今、静かに動き出す。