(28) 帝都への道中
――十年前。エスティリア王国。
「エドリック!」
馴染みのある声が庭の向こうから響き渡る。
サイラスが振り向くと、やはりエレノアだった。
銀白色の長髪は陽光を受け、淡い青紫の輝きを帯びて揺れる。
氷のように澄んだ青い瞳は、湖面のようにきらめき、期待と興奮に満ちていた。
エレノアは軽やかな足取りで駆け寄り、
風に揺れるスカートが彼女の無邪気な笑顔をより引き立たせる。
あまりに純粋で、目を奪われるほどだった。
サイラスは反射的に後ずさりそうになったが、思いとどまった。
彼女は決して気にしなかった。
彼の素性を、彼が敵国の出身であることを、そして彼がただの「人質」にすぎないことを。
彼女はいつも笑顔で、ためらうことなく手を差し伸べてくる。
しかし――彼は怖かった。
彼女が呼ぶその名は「エドリック」。
だが、それは本当の彼の名前ではなかった。
「なにボーッとしてるの?」
エレノアは不満げに腕を組み、ぷくっと頬を膨らませる。
「早く来て!すっごく素敵な場所を見つけたの!」
無邪気な笑顔のまま、彼女は迷いなく手を差し出す。
まるで「私の世界へおいで」と誘うかのように。
サイラスはその小さな手をじっと見つめた。
しばしの逡巡ののち、彼はそっと手を伸ばし、そっと彼女の手を握りしめる。
ただ……
彼女が「エドリック」と楽しげに呼ぶたび、サイラスは心の中でそっと願ってしまう。
――もしもいつか、彼女が本当の名を呼んでくれる日が来たなら。
その時、自分はどんな気持ちになるのだろうか?
◆ ◆ ◆
「カイン……カイン?」
再び聞き慣れた声が響く。
サイラス――いや、今の「カイン」は、過去の記憶から現実へと引き戻された。
瞬きをして意識を取り戻すと、自分が揺れる馬車の中に座っていることを認識する。
目の前ではエレノアが眉をひそめ、じっと彼を見つめていた。
「なにボーッとしてるの?」
腕を組んだ彼女の氷青色の瞳が、不満げに細められる。
「疲れた?それとも、さっきの話ちゃんと聞いてなかった?」
サイラス――カインは、ふっと小さく笑い、首を横に振る。
「いや、ちょっと昔を思い出していただけだ。」
窓の隙間から差し込む光が、エレノアの銀白の髪に淡い青紫の輝きを与える。
昔と変わらない、しかし――もう、彼女は無邪気な王女ではなかった。
彼女は今、亡国の姫として生きている。
カインは静かに目を伏せ、苦笑する。
――そうだ。今の俺は「カイン」だ。
かつて「サイラス」だった自分は、
「エドリック」という偽りの名を与えられ、
そして今、また新たな名を生きている。
幾重にも重ねられた名の仮面の下、本当の自分はどこに埋もれているのだろうか。
「なに笑ってるの?」
エレノアは探るような目で彼を見つめる。
カインは眉を上げ、微かに笑みを浮かべた。
「ずいぶん態度が変わったな。
舞姫を演じていたときは、もっと俺に敬意を払っていたのに。
今じゃ、名前を呼び捨てか?せめて“カイン様”くらい付けろよ。」
「あなたが私の素性を知った以上、必要ないでしょう?」
エレノアは淡々とした口調で言い放ち、背筋を伸ばす。
言葉こそ柔らかくなったが、その佇まいには王族らしい気品が滲んでいた。
カインはじっと彼女を見つめる。
確かに、今の彼女は舞台の上で微笑みながらもどこか遠い存在だった「舞姫エレ」ではない。
彼が覚えている、本当に彼女らしい姿――
陽の光の下で駆け回り、無邪気に笑う、かつての王女の面影がそこにあった。
◆ ◆ ◆
その日、彼は彼女を帝都へ連れて行くと約束した——




