(25) 仕組まれた罠
「お前をここに連れてきたのは、余計な真似をさせないためさ。」
男はゆっくりとした口調でそう言いながら、貪欲な光を目に宿す。
「いいだろう、お姫様——」
皮肉げな笑みを浮かべたまま、彼は指を一本立てた。
「選択肢は二つだ。」
「一つ目——もう片方のピアスを差し出し、大人しくここにいろ。我々が"相応しい買い手"を見つけてやる。」
「二つ目——」
彼はわざと間を取り、冷たく光る目でエレを見据えた。
「自分から渡さないなら、こっちで探させてもらうだけだ。」
リタの顔がさっと青ざめ、無意識に後ずさる。
瞳がかすかに揺れ、額にはじわりと冷や汗が滲んだ。
「……あんたたち、琥珀商人なんかじゃない……!」
震える声でそう言うと、男は軽く肩をすくめて笑った。
「琥珀は売るさ。」
彼は悠然とした口調で答える。
「ただし、たまには"人"も売ることがある。」
——空気が、凍りついた。
エレの指先がかすかに震える。
だが、必死に平静を保った。
彼女の視線が周囲を走る。
——退路はない。
四人の屈強な男たちがじりじりと距離を詰め、獲物を狙う獣のような目でこちらを見ていた。
その表情には、すでに獲物を手にした確信が見て取れる。
「おとなしく従え。」
男は冷たく笑い、ゆっくりと手を伸ばす。
「……さもなくば、痛い目を見せてやる。」
エレとリタは背中を壁につけ、追い詰められた獲物のように立ち尽くす。
——終わった。
彼女たちは、完全に袋の鼠だった。
エレは密かに拳を握りしめ、込み上げる絶望を必死に押し殺す。
頭の中で、脱出の可能性を探る。
——だが、次の瞬間。
寒光が走った。
リタがすでに短剣を抜き、鋭い眼差しで前に立ちはだかる。
その小柄な体はわずかに膝を落とし、完全に防御の構えをとっていた。
「……彼女に触れたければ、この刃を試してみな。」
声は小さい。
だが、そこには確かな決意と凄みがあった。
虚勢ではない——本気だ。
エレは思わず息をのむ。
——この子が、ここまでして私を守ろうとしている?
リタはただの侍女——ずっとそう思っていた。
家事が得意で、多少の護身術は心得ている。
だが、まさか何の迷いもなく刃を向け、私の前に立つなんて——
「……フッ。」
男が目を細め、口元に冷え冷えとした笑みを浮かべる。
ゆっくりと手を上げると、後ろの部下たちに合図を送った。
「……捕えろ。」
包囲網が、狭まる。
しかし、次の瞬間——
夜風が激しく渦を巻き、遠方から重厚な蹄の音が響き渡った。
まるで雷鳴のように、大地を震わせる音。
男の顔色が一瞬で変わる。
「……なんだ、この音は——?」
その問いに答えるかのように、闇の中から疾風のごとく黒い影が駆け抜けた。
漆黒のマントが風を裂き、金属と革の擦れる音が静寂を破る。
エレは目を見開いた。
——あれは。
カイン様。
黒衣を纏い、炎の揺らめく光の中で琥珀色の瞳が冷たく光る。
まるで闇を貫く刃のように、その視線はすべてを射抜く。
「くそっ、撤退しろ!」
男が叫び、すぐに刀を抜く——だが、遅い。
カインが軽く手を振ると、闇に溶けるように数名の黒衣の騎士が素早く側面へ回り込む。
瞬く間に、逃げ道は塞がれた。
「……生かす必要はない。」
冷ややかに告げられた、その一言。
次の瞬間、黒衣の騎士たちが無言のまま刃を抜き放つ。
月光を浴びた長剣が、鋭く煌めいた。
「ま、待て! 俺たちは——」
閃光が走り、鈍い音が響く。
夜気を切り裂くように、鉄の匂いが漂い始める。
エレは息を呑んだ。
目の前で、容赦なく繰り広げられる死。
——本当に、この場にいる者は誰一人生き残れないのか?
カインは悠然と馬から降りると、何気なく衣服についた埃を払った。
そして、ゆったりとした足取りでエレの方へと歩み寄る。
「……お前はやはり、まだまだ甘いな、エレ。」
夜の静寂を切り裂くような、低く落ち着いた声。
そこには、どこか皮肉めいた響きがあった。
エレは強く唇を噛みしめ、何も言わない。
カインは薄く笑い、何でもないことのように言った。
「自分が主導権を握っているつもりだったか?」
彼は琥珀色の瞳を細め、わずかに首を傾げる。
「だが、お前は最初から最後まで狩る側ではなく、狩られる側だったんだ。」
エレはゆっくりと息を吸い込み、必死に冷静さを保とうとする。
彼の視線を正面から受け止め、低く問いかけた。
「……最初から知っていたの?」
カインは目を伏せ、まるで退屈そうに肩をすくめる。
「知っていただけじゃない。」
彼は何気なく夜空を見上げ、淡々と続ける。
「俺はただ、お前が自分で罠にかかるのを待っていただけだ。」
その瞬間、エレの心臓が強く跳ねた。
——これは、最初から仕組まれた狩りだったのか。
そして、自分はずっと、その獲物に過ぎなかった……。
カインはこの商人たちが胡散臭いことを見抜いていた。
それなのに、あえて手を出さず、自分が巻き込まれるのを静観していた。
そして、最後の最後になって、ようやく姿を現した。
——つまり、彼は「助けに来た」のではない。
「獲物を仕留めるために、ここに来た」のだ。
エレは拳を握りしめ、声を低く絞り出した。
「……最初から、このつもりだったの?」
カインは愉快そうに眉を上げ、軽やかな口調で答える。
「お前が素直に助けを求めることができないなら——実際に痛い目を見たほうが学べるだろう?」
エレの指が、じわりと震える。
強く手を握り締め、爪が掌に食い込むほどに。
「ここはお前がよく知る王宮じゃない。
そして、傍に仕えてくれる忠実な騎士たちもいない。」
カインの言葉は、静かで冷酷だった。
エレは奥歯を噛みしめ、怒りと悔しさを必死に抑え込んだ。
軽率だった。
そして——この男を甘く見ていた。
今や、自分は彼に大きな借りを作ってしまった。
——それだけは、絶対に避けたかったのに。




