(23) 琥珀のピアス
夜は静かに更けていく。
燭の揺らめく灯りが、室内の柔らかな影を映し出しながらも、どこか冷たさを帯びていた。
エレはベッドの端に腰を下ろし、指先でそっと机の上の小さな飾り箱をなぞる。
それは、彼女が普段使う装飾品の箱とは異なり——表面には、エスティリア王家の紋章が刻まれた、彼女が肌身離さず持ち歩いてきた大切な品だった。
深く息を吸い込み、そっと蓋を開ける。
中には、静かに二つのものが並んでいた。
月長石のペンダント ——
月のように深く、静かな輝きを放つ宝石。
それは、母である蒼月の聖女が託してくれたもの。
エスティリアの加護と叡智を象徴する石。
琥珀のピアス ——
透き通る琥珀は、まるで夕陽の余韻のように温かく、優しい光を宿している。
それは、かつてエドリック王太子が帰国した際に、彼女へと贈ったものだった。
エレの指先が、そっと琥珀のピアスに触れる。
——記憶が、静かに蘇る。
あの年——
エドリックは人質として、エスティリアの王宮に滞在していた。
当時の彼はまだ若き皇子だった。
敵国の王族でありながら、どこか飄々としていて、貴族特有の驕りも見せない。
その立ち振る舞いは洗練され、言葉には知性と誠実さが滲んでいた。
エレは、ノヴァルディアの人間を決して信用したことがなかった。
——だが、エドリックだけは別だった。
少なくとも、彼はエスティリアの貴族たちより、よほど信頼に足る人物だった。
あの宮廷の夜会でのこと。
彼と「琥珀」の象徴について語り合ったことがある。
「俺たちの帝国では、琥珀は伝承と皇権の象徴だ。」
エドリックは静かに微笑みながら、意味深にそう言った。
「じゃあ、あなたにとっては?」
興味を抱いたエレが問い返すと——
彼はただ、薄く微笑んだだけで、それ以上は何も語らなかった。
その時のエレは、特に気に留めることもなかった。
しかし——
エドリックが人質の身を終え、ノヴァルディアへ帰還してから数ヶ月後、彼女のもとへ思いがけない贈り物が届いた。
——精緻な琥珀のピアスと、短い手紙が添えられていた。
エドリックからの手紙に、華やかな言葉はなかった。
そこに書かれていたのは、たった一行——
「琥珀のように、いつまでも強くあれ。」
それを読んだ当時の彼女は、正直、意味がよくわからなかった。
いや、それどころか、どこか上から目線のようにさえ感じた。
——ノヴァルディアの皇子が?
——私に「強くあれ」だなんて?
彼女はその琥珀のピアスを仕舞い込み、それ以来、一度も身につけることはなかった。
その言葉の意味を深く考えることもなく——。
だが今、こうして再びそれを手に取った時——
彼女は気づいてしまった。
この贈り物に、彼はどれほどの想いを込めていたのか?
エドリックは、もしかすると——
彼女に何か特別な感情を抱いていたのではないか?
そんな考えが脳裏をよぎった瞬間、エレはハッとした。
彼の顔を思い出そうとしたのに、驚くほど記憶がぼやけていることに気づいたのだ。
彼の瞳は——何色だった?
彼の髪は——どんな色だった?
王宮の夜会の記憶をたどる。
揺れる燭光、高脚杯に映る豊かなザクロ色の輝き。
響き渡る宮廷楽団の旋律、貴族たちの談笑と微笑み。
そのすべてを、まるで昨日のことのように鮮明に思い出せるのに——
ただ、エドリックの顔だけが思い出せない。
——なぜ?
確かに、あの夜会でエドリックはずっと彼女の側にいた。
ともに言葉を交わし、同じ空間を過ごしたはずだった。
——なのに、一度たりとも視線が交わることはなかった。
エレはそっと琥珀を握りしめる。
指先がその滑らかな表面をなぞるたびに、記憶の奥底に沈んでいた光景を探り出そうとする。
あの年、彼と過ごした日々——
だが——
どうしても、思い出せない。
どれほど思い返そうとしても、頭に浮かぶのは霞がかかったような断片ばかり。
まるで時の流れに浸食され、輪郭がぼやけてしまったかのように——
エドリックの存在だけが、霧の向こうに隠れてしまっていた。
エレの胸が、ひやりと冷たい感覚に包まれる。
私はエドリック殿下に助けを求めるつもりだった。
彼だけが、私の唯一の頼れる存在だと信じていた——
——なのに。
私は、彼のことすら思い出せない。
では、エドリックは?
彼は今も私を覚えているのか?
助けてくれるのか?
彼女の指先が、ぎゅっと琥珀を握り込む。
胸の奥に、小さな不安が生まれる。
ずっと信じていた。
エドリックさえ見つけられれば、すべてが変わると——
だが、今になって初めて疑念が生まれる。
——この道は、本当に正しいのか?
そして今——
彼女の視線は、そっと琥珀の耳飾りへと落ちた。
だが、その瞬間。
脳裏に浮かんだのは、まったく別の人物。
彼女をまっすぐに見据える、琥珀色の瞳。
揺らぐことのない、冷静で鋭い光を湛えた瞳——
カイン・ブレスト。
エレは小さく息を呑み、かぶりを振る。
思考を整理しようとするも、指先は無意識のうちに琥珀をなぞっていた。
滑らかで温かな感触が、彼女の迷いを映し出すかのように、どこか不安定に揺らめく。
そして、今——
琥珀のピアスりと、月長石のペンダントは、静かに箱の中で寄り添うように収まっていた。
まるで彼女に、無言の問いを投げかけるかのように。
——過去は、過去。
今の私は、どうすべきなのか?
もし、エドリックへ手紙を届けたいのなら——
この琥珀のピアスりを賭けるしかない。
エレは、ゆっくりと箱の蓋を閉じた。
長く息を吐き出し、その瞳に、確かな決意の光を宿す。
——どんな手を使っても、この手紙を届けなければ。
これは、賭けだ。
退く道は、ない。
選ぶことも、できない。
彼女に残されたのは、すべてを賭けて前に進むことだけ。
——たとえ、勝算が一つも見えなかったとしても。




