表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
策謀の交差点

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/194

(23) 琥珀のピアス

夜は静かに更けていく。

燭の揺らめく灯りが、室内の柔らかな影を映し出しながらも、どこか冷たさを帯びていた。


エレはベッドの端に腰を下ろし、指先でそっと机の上の小さな飾り箱をなぞる。

それは、彼女が普段使う装飾品の箱とは異なり——表面には、エスティリア王家の紋章が刻まれた、彼女が肌身離さず持ち歩いてきた大切な品だった。


深く息を吸い込み、そっと蓋を開ける。


中には、静かに二つのものが並んでいた。


月長石のペンダント ——

月のように深く、静かな輝きを放つ宝石。

それは、母である蒼月の聖女が託してくれたもの。

エスティリアの加護と叡智を象徴する石。


琥珀のピアス ——

透き通る琥珀は、まるで夕陽の余韻のように温かく、優しい光を宿している。

それは、かつてエドリック王太子が帰国した際に、彼女へと贈ったものだった。


エレの指先が、そっと琥珀のピアスに触れる。


——記憶が、静かに蘇る。



あの年——

エドリックは人質として、エスティリアの王宮に滞在していた。


当時の彼はまだ若き皇子だった。

敵国の王族でありながら、どこか飄々としていて、貴族特有の驕りも見せない。

その立ち振る舞いは洗練され、言葉には知性と誠実さが滲んでいた。


エレは、ノヴァルディアの人間を決して信用したことがなかった。

——だが、エドリックだけは別だった。


少なくとも、彼はエスティリアの貴族たちより、よほど信頼に足る人物だった。


あの宮廷の夜会でのこと。

彼と「琥珀」の象徴について語り合ったことがある。


「俺たちの帝国では、琥珀は伝承と皇権の象徴だ。」

エドリックは静かに微笑みながら、意味深にそう言った。


「じゃあ、あなたにとっては?」

興味を抱いたエレが問い返すと——


彼はただ、薄く微笑んだだけで、それ以上は何も語らなかった。


その時のエレは、特に気に留めることもなかった。


しかし——

エドリックが人質の身を終え、ノヴァルディアへ帰還してから数ヶ月後、彼女のもとへ思いがけない贈り物が届いた。


——精緻な琥珀のピアスと、短い手紙が添えられていた。


エドリックからの手紙に、華やかな言葉はなかった。


そこに書かれていたのは、たった一行——


「琥珀のように、いつまでも強くあれ。」


それを読んだ当時の彼女は、正直、意味がよくわからなかった。

いや、それどころか、どこか上から目線のようにさえ感じた。


——ノヴァルディアの皇子が?

——私に「強くあれ」だなんて?


彼女はその琥珀のピアスを仕舞い込み、それ以来、一度も身につけることはなかった。

その言葉の意味を深く考えることもなく——。


だが今、こうして再びそれを手に取った時——

彼女は気づいてしまった。


この贈り物に、彼はどれほどの想いを込めていたのか?


エドリックは、もしかすると——

彼女に何か特別な感情を抱いていたのではないか?


そんな考えが脳裏をよぎった瞬間、エレはハッとした。

彼の顔を思い出そうとしたのに、驚くほど記憶がぼやけていることに気づいたのだ。


彼の瞳は——何色だった?

彼の髪は——どんな色だった?


王宮の夜会の記憶をたどる。

揺れる燭光、高脚杯に映る豊かなザクロ色の輝き。

響き渡る宮廷楽団の旋律、貴族たちの談笑と微笑み。

そのすべてを、まるで昨日のことのように鮮明に思い出せるのに——


ただ、エドリックの顔だけが思い出せない。


——なぜ?


確かに、あの夜会でエドリックはずっと彼女の側にいた。

ともに言葉を交わし、同じ空間を過ごしたはずだった。


——なのに、一度たりとも視線が交わることはなかった。


エレはそっと琥珀を握りしめる。

指先がその滑らかな表面をなぞるたびに、記憶の奥底に沈んでいた光景を探り出そうとする。


あの年、彼と過ごした日々——


だが——

どうしても、思い出せない。


どれほど思い返そうとしても、頭に浮かぶのは霞がかかったような断片ばかり。

まるで時の流れに浸食され、輪郭がぼやけてしまったかのように——

エドリックの存在だけが、霧の向こうに隠れてしまっていた。


エレの胸が、ひやりと冷たい感覚に包まれる。


私はエドリック殿下に助けを求めるつもりだった。

彼だけが、私の唯一の頼れる存在だと信じていた——


——なのに。


私は、彼のことすら思い出せない。


では、エドリックは?

彼は今も私を覚えているのか?

助けてくれるのか?


彼女の指先が、ぎゅっと琥珀を握り込む。

胸の奥に、小さな不安が生まれる。


ずっと信じていた。

エドリックさえ見つけられれば、すべてが変わると——


だが、今になって初めて疑念が生まれる。


——この道は、本当に正しいのか?


そして今——

彼女の視線は、そっと琥珀の耳飾りへと落ちた。


だが、その瞬間。


脳裏に浮かんだのは、まったく別の人物。

彼女をまっすぐに見据える、琥珀色の瞳。

揺らぐことのない、冷静で鋭い光を湛えた瞳——


カイン・ブレスト。


エレは小さく息を呑み、かぶりを振る。

思考を整理しようとするも、指先は無意識のうちに琥珀をなぞっていた。

滑らかで温かな感触が、彼女の迷いを映し出すかのように、どこか不安定に揺らめく。


そして、今——

琥珀のピアスりと、月長石のペンダントは、静かに箱の中で寄り添うように収まっていた。

まるで彼女に、無言の問いを投げかけるかのように。


——過去は、過去。

今の私は、どうすべきなのか?


もし、エドリックへ手紙を届けたいのなら——

この琥珀のピアスりを賭けるしかない。


エレは、ゆっくりと箱の蓋を閉じた。

長く息を吐き出し、その瞳に、確かな決意の光を宿す。


——どんな手を使っても、この手紙を届けなければ。


これは、賭けだ。

退く道は、ない。

選ぶことも、できない。


彼女に残されたのは、すべてを賭けて前に進むことだけ。


——たとえ、勝算が一つも見えなかったとしても。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ