(22) 取引の代償
それからというもの、カインはエレの前に積極的に姿を見せることはなくなった。
時折、酒場の貴賓席に座る彼の姿を見かけることはあった。
だが、それはあくまで観客として——ただ舞台を眺めるだけの存在。
以前のように、彼女を名指しで呼ぶこともなければ、試すような言葉を投げかけることもない。
相変わらず、彼は気まぐれな貴族の坊ちゃんだった。
たまに他の客と談笑し、時には舞姫たちに気のない視線を向ける。
「今夜の踊りはなかなか良かったな」
そんな気まぐれな褒め言葉を呟きながら、手元の酒を軽く揺らし、透明な薄い金色の液体を眺めつつ、飄々とした笑みを浮かべる。
——エレは、その変化に気づいていた。
最初は、特に気に留めていなかった。
こういう貴族は、今まで何度も見てきたから。
興味を持つのも早いが、飽きるのも早い。
もしかしたら、彼女への関心が失せたのかもしれないし、あるいは試す必要がなくなったのかもしれない。
それなら、それでいい。
彼が近づいてこない分、警戒しなくて済む。
——そう思っていたのに。
不思議と、ほっとしたはずの胸の奥に、ほんの僅か、形にならない違和感が残った。
そして、ある日——
エレが宿に足を踏み入れた瞬間、まだ息を整える暇もなく、リタが勢いよく駆け寄ってきた。
彼女はエレの手首を掴み、滅多に見せない輝きを瞳に宿している。
「エレ、見つけたわ!」
興奮を抑えた低い声が、室内に響いた。
エレは一瞬だけ驚いたが、すぐに気を引き締め、小声で問いかける。
「……聞かせて。」
リタは周囲を見回し、窓と扉がしっかり閉まっているのを確認すると、そっとエレの側へ寄った。
「琥珀商隊よ。」
その名を聞いた瞬間、エレの眉がわずかに動く。
琥珀——それは、ノヴァルディア皇室を象徴するもの。
帝都から来るこの商隊は、貴族向けに最高級の琥珀製品を取り扱っており、帝都への出入りも自由で、上流社会との強い繋がりを持つ。
そんな彼らに接触するのは容易ではない。
「どうやって?」エレは小声で尋ねた。
「今日の仕事中に聞いたの。商人たちが取引の話をしてて……彼らは帝都から来ていて、明日には戻るらしいわ。」
リタの声には抑えきれない高揚が滲んでいる。
「彼らの隊は、王宮の近くを通るの。もしうまく頼めれば……私たちの手紙は確実にエドリック殿下の元へ届くわ!」
エレの鼓動が、わずかに速くなる。
——またとない機会だ。
この商人たちを通せば、情報を妨害されることなく帝都へ届けられる。
そして、エドリックの手に確実に渡る。
しかし——相手は本当に協力してくれるのだろうか?
エレは冷静に考えを巡らせる。
琥珀商隊は確かに最も信頼できる選択肢だ。だが……
「そんな相手が、私たちに手を貸してくれると思う?」
彼女は声を落とし、静かに問いかけた。
リタは唇を噛みしめ、小さな声で答える。
「……『王太子に繋げてほしい』って頼むのは無理。でも、お金さえ払えば、手紙を運ぶくらいならやってくれるみたい。」
エレの眉がわずかに寄る。
——やはり、金こそが何よりも確実な交渉材料。
「でも……」
リタの声が一瞬躊躇いを含み、ためらいがちに続けた。
「……料金が、すごく高いの。私たちの持ってるお金じゃ、たぶん足りない。」
エレの視線がそっとリタの指先に落ちる。
ほんのり赤くなった指先。
細かな擦り傷と、かすかにできた硬い繭。
ここ数日、彼女は少しでも金を貯めようと休む間もなく働き続けていた。
それなのに——まだ足りないのか。
エレは静かに息を吸い込み、低い声で尋ねた。
「……あと、どのくらい足りない?」
リタは少し躊躇いながら、小さな声で答える。
「……少なくとも、あと三枚の金貨が……」
三枚の金貨。
その額は、今の彼女たちにとって決して小さくはない。
普通のメイドの月給はせいぜい金貨半枚程度。
無一文同然の彼女たちが、たった一日でこれだけの金を工面するのは——ほぼ不可能だった。
エレの胸が冷たく沈んでいく。
金がなければ、手紙は帝都に届かない。
それはつまり、エドリックへの唯一の繋がりを失うことを意味する。
指先でそっと机の表面をなぞりながら、深く考え込む。
——明日までに、どうにかしてこの金を用意しなければ。
そうでなければ、このチャンスは永遠に消えてしまう。
しかし、問題は——
どうやって、一日で金貨三枚を手に入れるか。




