(2) 亡国の姫 ― 逃げるしかない私
部屋の中には、淡い燭火が揺れていた。
窓の外では、街の灯がまだ煌々と輝いている。
だが――エレは、その景色を眺める余裕などなかった。
鏡台の前に腰を下ろし、静かに息を吐く。
肩が、ひどく重い。
まるで、見えない鎖をかけられたかのように。
「姫様、お身体をお拭きしますね。」
リタが水盆を手に、そっと部屋へ入ってきた。
卓上に置かれた水盆の表面が、燭火に照らされて揺らめく。
リタは手際よく布を絞り、それをエレに差し出した。
エレは彼女を一瞥し、淡々とした声で言う。
「今の私は、ただの踊り子よ。」
「……」
リタは唇を噛みしめ、視線を伏せた。
「ごめんなさい……。もし、私が財布を無くしたりしなければ……
姫様が踊り子になることも、あんな浮ついた貴族たちを相手にすることも……。」
エレは小さくため息をつくと、差し出された布を受け取り、
そっと顔を拭った。
温かい蒸気が、心の奥深くまで滲み込む。
「気にしないで、リタ。」
静かにそう言いながらも、エレの胸の奥には冷たい影が落ちていた。
――この選択は、あまりにも危険すぎる。
今夜の「カイン様」こそが、その最たる例だ。
舞台に立った直後、すぐに貴族のもとへ呼ばれる――。
よくあることではある。
相手がただの享楽に浸る放蕩貴族なら、まだ対応はしやすい。
だが、今夜の男は違った。
――エスティリアについて知っている。
しかも、彼女の素性を探るようなそぶりすら見せた。
「……カイン様。」
エレは名前をそっと口にした。
その声はかすかに掠れ、まるでその名の中に何か手がかりを見つけようとしているかのように。
「姫様?」
リタが顔を上げる。
「さっきの貴族のことですか?」
「……そう。」
エレは少し間を置き、低く呟く。
「彼は、ただの客とは違った……エスティリアについて、質問してきたの。」
「……っ!」
リタの指が、無意識のうちにエプロンをぎゅっと握りしめる。
「まさか、正体がバレたんじゃ……?!」
「……まだ、気づかれてはいないはず。」
エレは微かに首を振る。
その声は落ち着いていたが、確信があるわけではなかった。
――だが、このままではいずれ……。
今回の探りは、ただの始まりに過ぎない。
カインが今後も彼女に注目し続ければ、いずれ必ず何かに気づくだろう。
「……姫様、ここを離れた方がいいんじゃ……?」
リタは焦ったように言う。
「この場所は危険すぎます。毎日舞台に立ってたら、いつか……。」
エレは沈黙する。
そして、ゆっくりと首を振った。
「……ダメよ。」
今の私たちには、逃げる場所すらないのだから。
ここは、ノヴァルディア――。
かつてエスティリアと敵対していた国。
今、彼女たちが唯一、身を寄せられる場所。
もともとの計画では、まずこの辺境の城塞都市ブレストで身を落ち着け、
その後、ノヴァルディアの王太子エドリックと接触を試みることだった。
彼の力を借りることができれば――。
それが、彼女にとって唯一の望みだった。
エドリックはかつて、エスティリアで人質として過ごしたことがある。
エレとは、一度だけ顔を合わせたことがあるはず。
彼女が頼れる唯一の繋がり。
記憶の中のエドリックは、帝国貴族のような傲慢さとは無縁だった。
たとえ人質の立場にあっても、彼は常に品位を保ち、礼儀を忘れず、
不満を漏らすこともなければ、エスティリアを見下すような素振りすらなかった。
それどころか――彼は、エスティリアの文化や言葉を学ぼうとしていた。
彼は、帝国の多くの者たちのように、エスティリアを敵視していなかった。
むしろ彼から感じたのは――温かく、しかし理知的な雰囲気。
記憶は遠く、すでに霞んでいる。
それでも、彼が帝国の急進派に与する人物ではないという予感だけは、確かにあった。
そして何より――。
彼は、かつてエスティリアにいた数少ない人物のひとり。
そして、私の存在を知る者。
――彼なら、話を聞いてくれるかもしれない。
少なくとも、他の帝国の者よりは、可能性があるはず。
だが、まだ機は熟していない。
この城は、彼女にとって未だ見知らぬ土地。
敵と味方の区別もつかぬまま、軽率な行動は命取りになりかねない。
安全が確保できるまでは、動くべきではない。
「……ここを離れるわけにはいかない。少なくとも、今はまだ。」
エレは静かに言った。
「でも、もっと慎重にならなきゃ……。これ以上、正体を疑われるようなことは絶対に避けないと。」
リタは唇を噛みしめる。
言葉こそ発しなかったが、その表情には不安が色濃く滲んでいた。
エレの指先が、無意識のうちに銀白の髪をなぞる。
――カイン様が、それに触れた感触。
**「蒼月の聖女」**と口にした時の、あの声音。
「マミー……。」
まだ、ご無事なのですか?
今も……安全なのでしょうか?
止めどなく浮かび上がる疑問が、心の奥をざわめかせる。
それは波のように、何度も何度も押し寄せ――
エレは、どうしても眠れなかった。
ゆっくりと瞼を閉じる。
脳裏に蘇るのは、あの日の記憶。
――王城から逃げ出した、あの夜。
。 。 。
あの夜、王城は業火に包まれた。
燃え盛る炎が天を焦がし、空は血のように赤く染まる。
耳をつんざくのは――
宮廷の衛兵たちの叫び、剣がぶつかり合う金属音、
そして、民衆の悲鳴と泣き声。
エレは王宮の回廊の影に立ち尽くし、
両手で胸元の布をきつく握りしめていた。
爪が掌に食い込み、皮膚を傷つけても、痛みは感じなかった。
「エレノア殿下、早くお逃げください!」
腕を強く引かれる。
振り返ると、そこにいたのは忠義に厚い騎士。
父王が最も信頼していた近衛の一人――その顔には血が飛び散り、
それでもなお、彼は迷いなく彼女を庇うように立っていた。
「マミー……母上は……?」
震える声が零れる。
胸を締めつける恐怖と不安を押し殺しながら、
彼女は騎士に尋ねた。
「……蒼月の聖女は、まだ王宮の中におられます。」
「王の御身を護るために――。」
「そんな……ダメ……!」
「私、戻らないと……! マミーを助けに――」
「エレノア王女!」
騎士が強く腕を引いた。
彼の瞳には、計り知れない悲痛の色が滲んでいる。
「今は、姫様のわがままを通している場合ではありません!」
「……我々は、すでにあまりにも多くを失ったのです!」
血の気が、すっと引いていく。
その夜――。
王城の塔は崩れ落ち、
宮殿は瓦礫と化し、
そして、エスティリア王国の運命は、彼女の意思とは無関係に塗り替えられた。
最後の記憶。
それは、騎士が最後の力を振り絞り、彼女とリタを馬車へと押し込んだ光景。
そして――。
彼が流した鮮血と、命を懸けて切り開いた、たった一つの逃げ道。
。。。
エレは、そっと瞼を開いた。
「マミー……」
微かに漏れた囁き。
その瞳には、ほんの少し影が落ちる。
――今の彼女には、母の生死すらわからない。
指先に力を込め、静かにタオルを握りしめる。
心の奥底で、不安がじわじわと広がっていく。
まるで、闇に潜む波のように。
それでも――。
今はただ、生き抜くことが最優先だ。