(193) 刻む誉の叙任
三ヶ月後、帝都。
春の気配が漂い始めた皇都。
朝の光が差し込む中、宮殿の大理石の廊下は淡く柔らかな白い光を反射していた。
エレは深い色合いの、すっきりとしたの長衣を身にまとい、華美だがどこか寂しい回廊を一歩一歩、静かに進んでいた。
曲がり角に差しかかったその時──
見慣れた人影が向こうから歩いてきた。
「……ヴェロニカ。」
彼女はいつものように冷たい表情だったが、エレを見た途端、わずかに眉が緩んだ。
「思ったより早かったわね。」
エレは微笑み、軽く冗談めかして返す。
「陛下をお待たせするわけにはいかないでしょう?」
ヴェロニカは腕に抱えた書類の束を抱き直しながら、彼女を一瞥した。
「……あいつ? 安心して。最近は忙しすぎて怒る暇もないわよ。」
エレの目がわずかに揺れ、声を落とした。
「……即位式は、無事に?」
ヴェロニカは視線を逸らし、平坦な声で答えた。
「無事も何も、疑いようのない継承だったわ。」
言葉を一拍置いてから、低く付け加える。
「──彼の王位を脅かせる可能性が最も高かった人物が、もういないのだから。」
二人の間に沈黙が流れる。
大理石の床を踏むの音だけが、長い廊下に反響していた。
やがて謁見の間の前にたどり着いた時、ヴェロニカはふと足を緩め、少しだけ顔を横に向けた。
「……エレ。」
エレも足を止めて、彼女を見上げる。
ヴェロニカはしばらく黙って彼女を見つめ、やがて刺すような鋭さの抜けた、穏やかな声で告げた。
「……中で余計なことは言わなくていい。言うべきことは、あなたなら分かってるはず。」
エレは深く息を吸い、こくりと頷く。
「分かってる。ありがとう、ヴェロニカ。」
ヴェロニカは視線をそらし、小さく鼻を鳴らしただけだった。
何も言わずに踵を返し、廊下の先へと歩き去っていく。
腕に抱えた書類がわずかに揺れ、その擦れる音が、ほんの一瞬の迷いをかき消すように響いた。
エレはその背中を見送り、ようやくゆっくりと振り返る。
目の前に立ちはだかる、あの高く大きな黄金の扉に向かって、深く息を吐いた。
扉の前の従者が静かに名を告げると、重厚な蝶番が低く響き──
それは、まるで新たな始まりを告げる音のようだった。
謁見の間は広く、静謐な冷気に満ちていた。
高いステンドグラスから朝日が差し込み、磨かれた床に色とりどりの光の模様を落としている。
壁には金と深紅の帝国旗がかかり、薔薇の紋章が無言の威厳を放っていた。
最上段の玉座──今や「皇帝の座」となった椅子には、エドリックが静かに座っている。
隣にはカミラが后の座に控え、白く繊細な手を膝に添えたまま、穏やかだが鋭い目でエレを見下ろしていた。
従者が低く唱える。
「エレノア様、進み出よ。」
エレは息を整え、ゆっくりと歩み出す。
長衣の裾が床を擦る音が、沈黙の中で静かに響いた。
定められた位置まで進み出て、長衣を摘み、膝を軽く折る。
「エドリック陛下、カミラ陛下。」
エドリックは彼女を見つめ、どこか懐かしく、そして少しだけ困ったような笑みを浮かべた。
「そんなに堅苦しくしなくていいよ、エレ。」
その横で、帝国宮廷総管・ヒルベルトが一歩前に出て、澄んだ声で布告を読み上げた。
「エレノアに告ぐ。叙任──」
「爵位:男爵。」
「家名:アシュヴィル。」
「領地:灰谷。」
「建設及び定住のためのバラ貨若干を与える。」
「以上、サルダン戦争における功績を表彰する。」
エレは頭を垂れたまま、静かに応える。
「ありがたき幸いにございます。」
差し出された羊皮紙の叙任状を受け取り、両手でしっかりと抱える。
エドリックが口を開いた。
「──これで、満足か?」
エレは顔を上げ、しばらく黙っていたが……やがて、柔らかく、しかし揺るがぬ声で答えた。
「はい。……サイラス殿下が言っていました。静かな場所に行きたいと。」
「灰谷は、それに相応しい場所です。」
一瞬、大広間は静寂に包まれた。
エドリックの表情はほとんど変わらなかったが、その赤い瞳の奥に、一瞬だけ影が走った。
「……そうか。」
彼は立ち上がり、ゆっくりと階段を降りて彼女の前に歩み寄った。
その動きは静かだが、確かな意志を感じさせるものだった。
目の前まで来た彼は、声を落とし、まるで私語のように言った。
「ありがとう。彼を、戻してくれて。」
エレは、かつて誤解を重ねた男を見つめ返す。
その赤い瞳には、帝国を背負う重責と、そしてそれを超えた誠実さがあった。
彼女は微笑み、穏やかに、しかしはっきりと告げた。
「ありがとう。彼を私に託してくれて。」
エドリックは視線を落とし、苦笑した。
「……アイツはいつもそうだ。好き勝手やって、好きな道を選んで……」
「なのに最後は、誰にも逆らえなくなる。」
エレは静かに頷く。目はまっすぐだった。
「……それが、無償の愛だから。」
エドリックは何も言わず、しばらく沈黙したまま彼女を見つめた。
そして、穏やかな口調で、まるで何かを託すように、静かに言った。
「……出発の準備が整ったら、知らせてくれ。」
エレは頭を下げ、柔らかな声で応えた。
「はい。」
朝の光が差し込み、二人の姿を暖かく照らしていた。
その光は、かつての哀しみと後悔の影を静かに包み込み──
そして、新たな旅立ちを祝福するかのように、穏やかな輝きを放っていた。




