(192) 望むの転機
部屋の中は、息が詰まるほどの蒸し暑さだった。
窓の外から微かに軍の号音が聞こえてくるが、まるで遠い別世界の響きのように感じられた。
エレはベッド脇の椅子に体を丸めて座り、額を膝に押し付けたまま微動だにしなかった。
横の桶の水はすでに赤く濁り、底も見えないほど血で染まっている。
リタは床にしゃがみこみ、脇の棚を探っていた。清潔なガーゼを探すつもりだった。
乱雑に詰め込まれた薬草の包みを慎重にどけていくと、ふいに小さな固い箱に触れた。
「……ん?」
眉をひそめながら、それを取り出してみる。
奇妙な形をした平たい箱──表面はなめらかで透明感があり、琥珀のような質感なのにまったく重みがない。
その隣には一冊の小さなノートが置かれていた。紙の質も、この世界のものとは明らかに違っている。
表紙にはいくつか見慣れない記号のような線が並んでいて、リタはそれをじっと見つめる。
最初は絵かと思ったが、徐々に思い出していく。
──これ、文字だ。
意味はわからないけど……あの頃、王宮で聖女──リナ様が書いていたのと同じ。
リタは息を呑み、ひび割れた唇を噛みしめるように閉じた。
そっと顔を上げ、ベッドのほうを振り返る。
エレはまだ微動だにせず、肩が小さく震えていた。何かを必死に押し殺しているように。
リタは本と箱を手に持ち、ためらいながら声をかけた。
「……エレ様」
返事はない。
「エレ様……」
今度は少し大きめの声で呼ぶ。声が震えていた。
エレがゆっくりと顔を上げる。
赤く腫れた目には、乾いた涙の痕がまだ残っている。
リタは本と箱をそっと差し出しながら、低く、だが切迫した声で言った。
「これ……リナ様からもらったものではないですか? あの異世界の……道具……」
エレは一瞬呆然としながらも、その不思議な箱と文字を見つめる。
それは確かに──彼女の記憶を刺すように呼び起こした。
──あの日、公園で。
別れ際、リナが手を握って言った。
『この箱の中身は、必要な時に開けて』
エレの心臓が、強く打った。
……必要な時。
──それって、今のこと?
唇を噛み締め、手を震わせながら箱を受け取る。
光沢のある半透明の材質──この世界には存在しない異物。
……そう、それは「プラスチック」と呼ばれるものだった。
「カチッ」という軽い音と共に、箱が開く。
中には、透明な溝に整然と並べられた小さな粒──分けて保管するように設計された、薬のカプセル。
リタがそれを見つめて、声を震わせる。
「……これ、何……?」
エレはすぐには答えなかった。
代わりに、そっとノートを開く。
前半は見慣れた文字で、料理のレシピが並んでいた。家庭料理の調味料の分量、彼が好きそうな料理ばかり。
──何度も読んだページ。
──いつか、サイラスに食べてもらおうと思ってた……。
ページを無意識にめくりながら、心の中で呟く。
──でも、今さら料理しても、彼は食べられない……
……そう思った瞬間、最後の数ページに目が止まる。
そこだけ──字の調子が違う。
ゆっくりと、丁寧に、けれどどこか震えた筆跡。
彼らの言葉で補われながら書かれていたのは、まるで備忘録のような短い文。
『これを読んでいるなら、最悪の時だ』
『箱の中は薬。抗菌用。一日三回、一回一錠』
『水をたくさん飲ませて。そうしないと効かない』
『熱湯か酒で血を洗い、布は煮沸して使う』
『蜂蜜は浅い傷に塗れば感染予防』
『膿や黒くなった部分は取り除いてから包帯』
『痛くても、必ず。それを怠ると壊疽になる』
『治癒の力がなくても……これで彼を助けられる』
エレの目から、涙がぽたりとこぼれた。
指先が小刻みに震えながら、彼女はその文字をなぞる。
まるで、それを心に刻みつけようとしているかのように。
「……エレ様?」
リタの小さな声に、エレはゆっくりと顔を上げた。
その目には、もう一度灯った炎が揺れていた。
彼女は深く息を吸い込み、まだ震えてはいたが、はっきりとした声で言った。
「……まだ、希望がある」
そして、ベッドの上で瀕死の状態にある男を見つめる。
唇を引き結び、決意を込めて言葉を続けた。
「絶対に……あなたを死なせたりしない」




