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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
終章:踏む路の開幕

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192/194

(192) 望むの転機

 部屋の中は、息が詰まるほどの蒸し暑さだった。

 窓の外から微かに軍の号音が聞こえてくるが、まるで遠い別世界の響きのように感じられた。


 エレはベッド脇の椅子に体を丸めて座り、額を膝に押し付けたまま微動だにしなかった。

 横の桶の水はすでに赤く濁り、底も見えないほど血で染まっている。


 リタは床にしゃがみこみ、脇の棚を探っていた。清潔なガーゼを探すつもりだった。

 乱雑に詰め込まれた薬草の包みを慎重にどけていくと、ふいに小さな固い箱に触れた。


「……ん?」


 眉をひそめながら、それを取り出してみる。

 奇妙な形をした平たい箱──表面はなめらかで透明感があり、琥珀のような質感なのにまったく重みがない。

 その隣には一冊の小さなノートが置かれていた。紙の質も、この世界のものとは明らかに違っている。


 表紙にはいくつか見慣れない記号のような線が並んでいて、リタはそれをじっと見つめる。

 最初は絵かと思ったが、徐々に思い出していく。


 ──これ、文字だ。

 意味はわからないけど……あの頃、王宮で聖女──リナ様が書いていたのと同じ。


 リタは息を呑み、ひび割れた唇を噛みしめるように閉じた。

 そっと顔を上げ、ベッドのほうを振り返る。


 エレはまだ微動だにせず、肩が小さく震えていた。何かを必死に押し殺しているように。


 リタは本と箱を手に持ち、ためらいながら声をかけた。

「……エレ様」


 返事はない。


「エレ様……」

 今度は少し大きめの声で呼ぶ。声が震えていた。


 エレがゆっくりと顔を上げる。

 赤く腫れた目には、乾いた涙の痕がまだ残っている。


 リタは本と箱をそっと差し出しながら、低く、だが切迫した声で言った。

「これ……リナ様からもらったものではないですか? あの異世界の……道具……」


 エレは一瞬呆然としながらも、その不思議な箱と文字を見つめる。

 それは確かに──彼女の記憶を刺すように呼び起こした。


 ──あの日、公園で。

 別れ際、リナが手を握って言った。

 『この箱の中身は、必要な時に開けて』


 エレの心臓が、強く打った。


 ……必要な時。

 ──それって、今のこと?


 唇を噛み締め、手を震わせながら箱を受け取る。

 光沢のある半透明の材質──この世界には存在しない異物。

 ……そう、それは「プラスチック」と呼ばれるものだった。


 「カチッ」という軽い音と共に、箱が開く。


 中には、透明な溝に整然と並べられた小さな粒──分けて保管するように設計された、薬のカプセル。


 リタがそれを見つめて、声を震わせる。

「……これ、何……?」


 エレはすぐには答えなかった。

 代わりに、そっとノートを開く。


 前半は見慣れた文字で、料理のレシピが並んでいた。家庭料理の調味料の分量、彼が好きそうな料理ばかり。


 ──何度も読んだページ。

 ──いつか、サイラスに食べてもらおうと思ってた……。


 ページを無意識にめくりながら、心の中で呟く。


 ──でも、今さら料理しても、彼は食べられない……

 ……そう思った瞬間、最後の数ページに目が止まる。


 そこだけ──字の調子が違う。


 ゆっくりと、丁寧に、けれどどこか震えた筆跡。

 彼らの言葉で補われながら書かれていたのは、まるで備忘録のような短い文。


『これを読んでいるなら、最悪の時だ』

『箱の中は薬。抗菌用。一日三回、一回一錠』

『水をたくさん飲ませて。そうしないと効かない』

『熱湯か酒で血を洗い、布は煮沸して使う』

『蜂蜜は浅い傷に塗れば感染予防』

『膿や黒くなった部分は取り除いてから包帯』

『痛くても、必ず。それを怠ると壊疽になる』

『治癒の力がなくても……これで彼を助けられる』


 エレの目から、涙がぽたりとこぼれた。


 指先が小刻みに震えながら、彼女はその文字をなぞる。

 まるで、それを心に刻みつけようとしているかのように。


「……エレ様?」

 リタの小さな声に、エレはゆっくりと顔を上げた。

 その目には、もう一度灯った炎が揺れていた。

 彼女は深く息を吸い込み、まだ震えてはいたが、はっきりとした声で言った。


「……まだ、希望がある」


 そして、ベッドの上で瀕死の状態にある男を見つめる。

 唇を引き結び、決意を込めて言葉を続けた。


「絶対に……あなたを死なせたりしない」

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