(191) 祈る和の残響
数日後──
涼風がラセレン要塞の石壁を撫でていた。
広間には淡い灯火が揺れ、沈黙をたたえた数人の顔を照らしている。
レオン伯爵は手袋を外し、静かに机を叩いた。声は小さいが、確かな重みがあった。
「サルダン側の代表は、なかなか口が達者だったよ。」
そう言って、彼は一瞥をヴェロニカに送り、視線を上座に座るグラン城主へと移した。
「教会は帝国に敵意はないと主張した。すべてはラファエット個人の野心と独断行動だ、と。」
彼は嘲るように鼻で笑った。その胸中のわだかまりを吐き出すように。
「人質もすぐに解放して、全ての責任をきれいに撥ね退けたよ。まるで、何も関与していなかったかのようにね。」
広間には一瞬、薪がはぜる音だけが響いた。
ヴェロニカは黙って傍らに立ち、両手を前に組んでいた。表情は冷たく、微動だにしない。
「……でも、金は出すようね。」
軍情の報告のように、起伏のない口調だった。
「国境沿いの二つの領地を割譲し、相応の賠償金も支払うと言ってきた。」
「“損失を認める”という形だ。」
グラン城主は小さく息をつき、書類の一部に目を落とす。戦後の協議記録の写しに指先を添えながら、低く言った。
「……金で取り戻せないものも、ある。」
その声は枯れたようで、心の奥底から絞り出された血のようだった。
誰も言葉を継がず、灯火が揺れる中、それぞれの影が壁に揺れていた。
やがて、レオンが顔を上げ、ヴェロニカを見据える。
「明日、帝都へ戻るつもりだ。」
一拍置いてから、彼はまっすぐ彼女の瞳を見た。穏やかながら、誠実な誘いの響きを宿していた。
「一緒に戻らないか?」
ヴェロニカはすぐに答えなかった。目を伏せ、わずかに肩が強張る。
制服の上で指がぎゅっと握られ、そしてまた緩められる。
それを見たレオンは、ため息をつき、どこか懐かしい口調で呟いた。
「……帰りたくないなら、いい。」
冗談めかした笑みを浮かべながらも、その顔には冗談の色はなかった。
「ここに残って、グランと一緒に寄せ集めの貴族軍の処理を手伝ってやれ。お前が一番こういう片付けは得意だからな。」
ヴェロニカはようやく顔を上げ、彼を一瞥する。反論も、笑いも返さず――ただ、静かにうなずいた。
「……わかった。」
レオンはそれ以上言葉を続けず、視線を逸らす。
主の座にいるグランは、長く息を吐いた。印章の押された和平条約を黙って見つめていた。
要塞の風は肌を刺すように冷たかった。
ヴェロニカは無言で廊下を進み、臨時で騎士団の拠点とされた部屋へと足を運ぶ。
扉の外には壁にもたれる数人の騎士がいたが、彼女の姿を見ると黙って道を開けた。
中ではアレックとノイッシュが机の上の書類を前に、低い声で何か話していた。
彼女が入ってくると、アレックが顔を上げた。
「よ、ちょうどいいところに来た。」
声には疲れがにじみ、かすれが混じっていた。
「もう一度人数を確認した。残った貴族の隊は順次、故郷に戻す手筈だ。遅れれば、また混乱の火種になる。」
ノイッシュが口を尖らせて付け加える。
「この連中、砂みたいにバラバラだ。丁寧に追い返さなきゃならん。」
ヴェロニカは彼らを一瞥し、感情を見せない声で尋ねた。
「……彼女は?」
空気がぴたりと凍る。
アレックは眉をひそめ、少し逡巡したのちにため息をついた。
「部屋に閉じこもったままだ。」
「リタの話では、何も食べず、もう二日も眠れてないらしい。」
その口調には、どこか言い切れないものがにじんでいた。
ヴェロニカは黙って聞いていたが、下を向いたまま何も言わなかった。
ノイッシュが彼女を見ながら、静かに言った。
「何かあったら言えよ。」
「俺たちも、すぐには帰らん。」
ようやくヴェロニカは目を上げた。
視線は冷たさを帯びていたが、いつものような鋭さではなく、ただ深く沈んでいた。
「……ああ。」
それだけを返し、彼女は踵を返した。
石造りの回廊は外より冷え込んでいた。
音のない静寂の中、彼女はある部屋の前で立ち止まり、そっと手を上げる。
扉の向こうからは、何の気配も感じられない。
叩こうとした指が、寸前で止まる。
扉の隙間をじっと見つめ、眉間に深く皺を寄せる。
数秒の沈黙の後、彼女はゆっくりと手を下ろした。
ブーツの底が静かに石床を擦り、背を向ける。
二歩だけ進んだところで、独り言のように、あるいは自分への言い訳のように、ぽつりと呟いた。
「……今はまだ、その時じゃない。」
部屋の中は、凝り固まった湿気に包まれていた。
窓の外から遠く軍の号音がかすかに響くが、それはまるで別世界の出来事のように感じられた。
エレはベッド脇の木製の椅子に座り、固く強ばった姿勢のまま、疲労の色を隠しきれなかった。
ベッドには、サイラスの体が灰色がかった毛布に包まれ、左顔と肩は分厚い血の滲んだ包帯で覆われていた。
傍らの木桶には血の混じった水が浸され、微かに鉄錆の匂いが漂っている。
帝国が正式に勝利を宣言したその日、血まみれになった彼は、ここラセレン要塞へと送り届けられた。
だが彼にとっての本当の戦いは、今まさに始まったばかり──死神との戦いだった。
「水、替えました。」
リタが静かに言い、温めた水の入った盆を彼女のそばの小机に置いた。
その瞳には、隠しきれない不安が宿っていた。
「……エレ様も、少しは休んで。何か口に入れて。」
エレはすぐには返事をせず、ただ小さく頷いた。聞こえているようで、どこか遠くを見ているようでもあった。
彼女は手を上げ、新しいガーゼを水に浸し、サイラスの顔に残る血痕を静かに拭っていく。
彼の両目は閉じられ、眉間には深い皺、呼吸は荒く、そして熱く──高熱との格闘が続いていた。
左目の周辺に触れたとき、彼女の手がふと止まる。
そこには、もう何もなかった。
かつて金紅の紋が浮かび、異質な神の力を宿していた左目──
今はただ、へこんだ痕跡と縫合された傷跡が残るのみ。
エレは唇を噛みしめ、視界がじわりと滲んだ。
──これが、私の治癒魔法が効かなかった理由?
──いわゆる「神授の力」……もう、失われたの?
彼女はガーゼを替え、再び水を含ませたが、もうその空洞には触れなかった。
視線を落とすと、彼の左耳の輪郭が見えた。そこにも火傷の跡が残っている。
ずっと彼が身につけていた月長石のピアス──
いつ失くしたのか、壊れたのかさえ、彼女にはわからなかった。
喉の奥が詰まり、息すら苦しく感じた。
そのとき──
サイラスが急に息を荒げ、胸が激しく上下する。
歯を食いしばり、まるで悪夢にうなされているかのように、額には冷や汗が浮かんでいた。
エレは思わず手を伸ばしかけたが、その手は力なく空中で止まった。
──熱が下がらなければ、彼の身体はもたない。
「……サイラス……」
その呼びかけは、ため息のように弱々しく。
目に溜まった涙が、今にも零れ落ちそうだった。
手から滑り落ちたガーゼが床に落ち、血混じりの水がはねる。
彼女の体が崩れ落ちるように床へ傾いたその時──
「エレ様!」
リタがすぐに支えた。声は切羽詰まっていた。
「お願い……倒れたら……」
エレは目を閉じ、ついに涙をこぼした。
だが彼女はすぐに顔を上げ、無理やり口元に微笑みを浮かべてリタに頷く。
「……大丈夫よ。」
そう言いながら深く息を吸い、再び椅子に戻ると、サイラスの冷たい手をゆっくりと取った。
指先は震えていたが、それでもしっかりと彼の手を握り締める。
──待ってるから。
──だから、戻ってきて。
心の中で何度もそう繰り返す。
それは祈りであり、誓いでもあった。




