(190) 抗う和の終幕
「──殿下ぁあああ!!!」
アレックが叫んだ。
その声はかすれて、叫びというよりも絶叫に近い。
炎は猛獣のように咆哮し、前方の森を飲み込んでいた。
一帯は灼熱の火海と化し、火光が全員の顔を蒼白に照らす。
熱気で目を開けていられないほどだった。
その最前線──リタは呆然と炎の前に跪いていた。
顔は涙と煤でぐしゃぐしゃに汚れ、肩を震わせ、泥を掴んだ手からは血が滲んでいた。
涙は止まらなかった。
「……殿下……」
喉から漏れたその声は、壊れたような嗚咽だった。
焼け焦げた大地に涙が静かに落ちる。
アレックたち騎士団が到着したのを見た瞬間、リタは顔を上げた。
その顔には涙の筋が刻まれ、悲痛な叫びが口から溢れた。
「殿下は──まだ中にいるの!!」
アレックは顔をしかめ、ぎり、と奥歯を噛み締めながら、激しく揺れる炎の中を睨みつける。
「クソッ……!」
そう叫んだ瞬間、彼の視線は横に跳ねた。
そこには、すでに馬から飛び降りたエレの姿があった。
彼女は着地と同時に足首を強く捻り、顔が一瞬歪む。
だが一歩も止まらず、よろけながらも立ち上がる。
裾は火の粉で穴が開き、顔は煙で涙に滲んでいた。
「エレ様!!」
リタが悲鳴のような声を上げる。
「戻って来い! 危険すぎる!」
アレックも怒鳴り、手を伸ばす。
──だが、エレは誰の声にも耳を貸さなかった。
「サイラス──!!!」
その声は枯れ果てていたが、叫びは夜を裂いた。
彼女は燃え盛る枝を手で押しのけた。
皮膚に火が触れ、水ぶくれが浮かび上がる。
それでも、彼女は一切声を上げず、突き進む。
煙が肺を焼き、咳が止まらない。
それでも、彼女は這うように前へと進んだ。
「どいて……」
震える声で呟く。
目には痛みと、悲しみと、揺るがぬ決意。
「絶対に……彼を見つけるの。」
炎に照らされた彼女の銀髪は、血で染められた戦旗のように夜風に揺れていた。
「……サイラス!」
彼女は見た。
血と焼け焦げた大地の交錯する中心に、男が静かに倒れていた。
左側の鎧は炎で溶けたように崩れ落ち、顔と肩からは血が流れ、焦土を真紅に染めていた。
左頬は血にまみれ、目は閉じられ、胸はかすかに上下しているものの、呼吸は途切れ途切れだった。
エレは彼のもとへ駆け寄り、震える手でその血に汚れた顔を包み込む。
「サイラス! 聞こえる!?」
彼女は慌てて手をかざし、掌に青白い光が灯る。
清らかな治癒の光が血に染まった彼の顔に差し込む──
しかし──
その光は、何かに喰われるように急速に暗くなっていく。
「違う、違う……!」
エレの瞳が見開かれ、呼吸が乱れたまま、再び魔法を発動する。
再び光が点るが、それは今にも消えそうな蝋燭の火。二度、三度瞬いたかと思うと、完全に消えた。
「やめて……消えないで……!」
彼女の声は崩れ、涙が彼の熱い額にポタポタと落ちていく。
──力が、流れていくのを感じた。
それはまるで、彼の命そのものが消えていくようだった。
「サイラス、死なないで!!」
彼女の叫びは嗄れ、全身の力が抜けるように彼にすがりつく。
両手で彼の血に濡れた傷口を押さえ、指の隙間から血が溢れ出す。
唇を噛みしめ、泣きながらも彼の名を呼び続けた。声は震え、今にも壊れそうだった。
「神様……お願い……神の力でも、なんでもいい……彼を……助けて……!」
遠くから、アレック率いる騎士団がようやく到着する。
彼の目に飛び込んできたのは、燃え盛る火の海と、その中心で抱き合う二人の姿。
アレックは馬を急停止させ、怒りと衝撃に目を赤く染めながら怒鳴る。
「すぐに火を消せ──急げ! 一人でも多く救え!!」
ラファエットの死体は少し離れた場所に転がっていた。
半身は黒焦げで歪み、かつて冷笑を浮かべていたその目は、今や虚ろな闇を映していた。
その副官は片足を引きずりながら近づいてくる。
目の前の惨状に、言葉を失ったまま拳を強く握りしめた。
アレックは彼を睨みつけた。
剣はまだ鞘に納められていない。
二人はしばし視線を交わし、空気には血と焼けた土の匂いが立ち込めていた。
やがて副官は、ゆっくりと頭を下げ、掠れた声で口を開く。
「……ラファエットは死んだ」
「我々は……敗北を伝える。和睦を……申し出る」
彼はアレックを一瞥し、それから血まみれのサイラスを抱きしめて泣くエレへと視線を移す。
その目には、言いようのない複雑な感情が滲んでいた。
最後に、まるで嘆くように静かに言った。
「彼を……戦果として持ち帰れ。これ以上、何も失いたくはない……」
アレックは無言で頷き、部下に指示してラファエットの亡骸を運ばせる。
エレの体は血にまみれ、掌も指の間も、温かく赤い液体で染まっていた。
彼女はサイラスを抱きしめたまま離そうとせず、涙は止まらない。
その額を彼の冷たい額に寄せ、声は震え、嗚咽に呑まれてほとんど聞き取れなかった。
「……お願い、サイラス……一人にしないで……」




