(19) 隠された素顔
彼女には、まだ賭けるだけの「手札」がなかった。
今の彼女は、王族の庇護もなく、頼れる勢力もない。
さらには、最も大切な母の行方すらわからない。
この状況で迂闊に正体を明かせば、待ち受けるのはさらなる危険のみ——
彼の「立場」も、わからない。
カイン・ブレスト。
表向きはブレスト領主の養子だが、その影響力は明らかにそれ以上のものだ。
彼は皇帝に忠誠を誓う貴族なのか——それとも、別の思惑を抱いているのか。
彼がエスティリアの政変に興味を示すのは、本当に情報を集めるためなのか?
それとも、その裏に何か別の目的があるのか?
彼女は、何も確信できなかった。
そして——リタを巻き込むわけにはいかない。
流亡しているのは彼女一人ではない。
リタもまた、彼女と共にこの異国の街を彷徨い、命を賭している。
リタは、彼女を守るために、見知らぬ土地で労働を続けている。
もし自分が正体を明かせば——リタも危険にさらされる。
だからこそ、彼女は自分の「過ち」で、リタまで危険な目に遭わせるわけにはいかなかった。
彼女には、果たすべき「目的」がある。
それは——エドリックとの接触。
この街に来たのは、ただ身を隠すためではない。
エドリック王太子と連絡を取る「機会」を探るため。
彼がこの手を取ってくれる保証はない。
だが、少なくとも——彼はエスティリアでの暮らしを知る数少ない人間。
唯一、頼れる「可能性」がある相手だった。
それらが確かになるまでは——
決して、自分の素性を明かしてはならない。
彼女は伏し目がちに、静かにまつげを伏せる。
カップの縁をなぞる指先は、わずかに冷えていた。
何もかもを悟られないように。
彼女は慎重に、自らの感情を隠す。
——そして、もう一度、この試合を押し返す。
エレは静かに息を整え、ゆったりとした動作で茶杯を置いた。
そして、まるで何でもないかのように微笑みながら言う。
「カイン様の情報網は、私が耳にした噂よりもずっと信頼できるようですね。」
彼女は穏やかな口調を保ちつつ、さりげなく話題をすり替える。
——自身ではなく、帝国の立場へと。
***
サイラス(カイン)は、そんな彼女をじっと見つめる。
琥珀色の瞳の奥に、冷静な思索の色が浮かんでいた。
——まだ助けを求めるつもりはないのか?
——まだ隠し続けるつもりか?
……いいだろう。ならば、こちらも焦る必要はない。
彼は、彼女の出方をじっくりと待つことにした。
ただ、一つだけ確信したことがある。
——この女は、思っていた以上に強情で、そして頑固だ。
***
エレの問いに対し、カインは微かに眉を上げる。
まるでこの質問を予想していたかのように、慌てる素振りも見せず、ゆったりと茶杯を口に運んだ。
「帝国の立場を俺が語るなんて、そんな大それたことはできないさ。」
彼はさらりとそう言い、茶をひと口含んだ後、意味深な笑みを浮かべる。
「俺なんて所詮、辺境の侯爵家の養子にすぎない。」
そう言いながら、カインは茶杯を指で軽く回す。
琥珀色の液体がわずかに揺れ、その視線がエレの瞳と交錯した。
「ただ、一つ言えることがある。」
彼はゆっくりと茶杯を置き、肩をすくめるように微笑んだ。
「戦争は面倒だ。」
淡々とした言葉の裏に、どこか嘲弄の色が混じっていた。
「特に、俺たちみたいな辺境の人間にとっては厄介な話だよ。」
「戦線がこのあたりにまで押し寄せてきたら、せっかくの平穏な暮らしも台無しだろう?」
カインは軽くため息をつき、茶をもう一口飲む。
「戦争だの、陰謀だの、王権争いだの……そんなことに振り回されるのはまっぴらごめんだね。」
彼は飄々とした口調で言いながら、ふと目の前のエレを見つめた。
「それより、こうして優雅にお茶を楽しんでいるほうが、ずっと素晴らしいと思わないか?」
そして、わざとらしく肩をすくめながら、茶杯を机に置く。
「目の前には美しい女性もいるしな。」
最後に茶杯の縁を指先で軽く叩きながら、意味ありげに微笑んだ。
エレは、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
——そして、心の中で小さくため息をついた。
(……また、話を逸らしたわね。)
彼のこうした態度は、もはや見慣れたものだった。
核心に迫りそうになると、あえて軽い話題へと流し、相手を試すような言葉を紛れ込ませる。
それがカイン・ブレストという男のやり方。
彼の本心を見抜くには、まだまだ時間が必要なようだ。
エスティリアの政変、そして父王の死——その話題の余韻がまだ残る中、目の前の男はまるで何事もなかったかのように、軽やかな口調で話題をすり替えた。
「戦争、陰謀、王権争い……聞いているだけで頭が痛くなるな。それより、こうして優雅にお茶を楽しむ方が、ずっといいと思わないか?」
カイン・ブレスト。
彼はあくまで無邪気な貴族のふりをしながら、どこまでも掴みどころがない。
——まるで、何もかもに興味がないかのように。
しかし、エスティリアの情勢を調べ、王族の動向を探っている時点で、「興味がない」などという言葉が真実であるはずがない。
(……この人、本当にただの貴族なの?)
エスティリアの政変に、どこまで関わっているのか?
彼の目的は何なのか?
今のところ、彼は私の正体を完全に確信しているわけではない。
だが、試されているのは確かだ——こちらが一歩でも踏み誤れば、すぐにでも全てを見抜かれてしまう。
——慎重にならなければ。
銀のカップをそっと持ち上げ、茶の香りを吸い込みながら、私は表情を崩さず、静かに微笑んだ。
「カイン様は、とても人生を楽しんでいらっしゃるのですね。」
「人生は短いからな。」彼は微笑み、琥珀色の瞳に穏やかな光を宿しながら、淡々と言葉を紡ぐ。「どうせなら、気楽に生きたほうがいい。」
私は軽く頷き、微笑みを保ちながら、慎重に言葉を選ぶ。
——彼の誘導に乗らず、それでいて怪しまれないように。
「……それは、私も同感です。」
この言葉が、彼にどう受け取られるか——
私は彼の反応を伺いながら、静かに茶を口に運んだ。