(186) 焰に抗う志
午後の光が徐々に傾き、空は白から淡い黄昏色へと染まりつつあった。
砂地の足跡は風に削られ、騎兵たちの影は夕陽に引き伸ばされている。
「隊列を崩すな」
サイラスは先頭で馬を駆り、低く鋭い声を放った。
後方には火銃隊が二列に並び、馬の背には短銃と予備の火薬包が括られている。
この道は、ヴェロニカが地図を指し示しながら説明していた通りだ。
『南から丘陵を迂回し、林道へ。二つの信号地点を通過すること』
一行は川沿いの河床を進み、水音が乾いた石の隙間からぐるぐると響く。
木々の影が交錯し、湿った腐葉の臭いが鼻を刺す。
蹄はぬかるみに沈み、鈍い音を立てた。
サイラスが手を挙げ、全隊に停止を命じる。
前方の道は、両脇を棘の茂みと雑木が覆い、人の手で削られたような土の斜面が見える。
一見して放棄された監視哨の跡のようだ。
彼はしばらく耳を澄ませた。
風の音のほかには、角笛も、叫び声もない。
ただ、草葉が擦れる微かな音がするのみ。
「……信号地点だ」
彼は静かに呟き、頭に刻み込まれた地形線を思い浮かべながら視線を巡らせた。
ここは、第一の目印。
ヴェロニカの声が脳裏を過る。
『第二の信号地点に日没までに到達すること。主軍との挟撃のタイミングが崩れるわ』
サイラスは手を挙げ、左前方の細道を指し示した。
「二列に分かれろ」
低く応じる声とともに、部隊は素早く再編された。
火が灯され、細く煙を上げるが、林の陰では目立たない。
サイラスは傾き始めた太陽を見上げ、手綱の上で指先を軽く叩いた。
時間は、まだある。
だが彼は理解していた。
──ラファエットも、きっと同じ夕陽を見ている。
その時、風が微かに香りを運んできた。
血でも火薬でもない。
──薬草が燻されたような、淡く甘い煙の匂い。
眉をひそめ、彼は無意識に剣の柄に手を置いた。
「……歩調を落とせ」
低く絞り出すような命令に、兵たちは息を潜めるように従う。
馬の蹄音が一層鈍く湿った音へと変わった。
サイラスは、林の奥の暗がりを睨みつける。
──ラファエット、お前はどこに潜んでいる……?
馬の足音が湿った土を叩く音が重く響く。
火銃兵たちは息を潜め、小道の先に広がる影は、まるで獣の口のように不気味な沈黙を湛えていた。
──風が止まる。
木の葉すら音を立てず、夜鳥の鳴き声もぴたりと止まる。
サイラスは左手を挙げて停止を指示し、前方の茂みを睨みつけた。
……様子がおかしい。
あの土、周囲よりも濃く、湿っている。
──まるで、誰かが最近掘り返したように。
「全員、五歩後退、準備」
氷のように冷たい声が、静寂を裂く。
兵が「了解!」と叫ぶや否や、茂みの中から微かな「カチ」という音が響いた。
サイラスは反射的に剣を構える。
次の瞬間、罠が跳ねた。
削られた木槍が複数、引かれて空を裂き、二本が彼の肩をかすめ、背後の木に深々と突き刺さる。
馬が驚いて嘶き、火銃兵が必死に銃を抱え直す。中には馬から落ちかける者もいた。
「落ち着け! 陣形を崩すな!」
サイラスの声は剣の如く鋭く、混乱の中に響き渡る。
彼は自分の左腕に目をやる。木槍に裂かれ、深い傷口から血が鎧を伝って滴る。
だが、それを気にする暇はない。
──茂みの奥から、無数の黒い影が現れる。
サルダン軍の軽装歩兵。
頭には灰布、手には粗雑だが致命的な槍と刀。
「撃てっ!」
火の閃光が林の暗がりを裂き、第一列の射撃で二人の敵兵が吹き飛ばされた。
だが敵は怯まない。むしろ次々と仲間の屍を越えて突進してくる。
「後退しろ、迎撃準備!」
サイラスは斬りかかってきた敵を一太刀で薙ぎ払い、返り血がその頬を濡らす。
この地形では、火銃の力は半減する。
狭い林道での接近戦こそ、最も分が悪い戦い方。
──これは殲滅戦ではない。
サイラスは冷静に見極めた。
──ラファエットの目的は、俺をここで足止めすることだ。
「ラファエット……!」
奥歯を噛み締め、剣を風の如く振るい続ける。
林には叫び声、火の爆音、命令の怒号が交錯する。
その中、彼は微かな音を聞いた。
──風に乗る、微笑のような声。
暗がりの奥。
ちらりと、鮮やかな蒼い目が閃いた。
──ラファエット。
サイラスは息を吸い、胸中の熱い血潮を鎮める。目には鋼の冷徹が宿る。
「陣形を崩すな!」
「側面を死守! 後列は装填、準備が整い次第撃て!」
「坂に退くな! 囲まれるぞ!」
その声は雷鳴のように戦場に響き渡り、兵の混乱を一喝で押し留める。
だが、彼の胸の奥にはわかっていた。
──本当の脅威は、まだこの先にいる。




