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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
焰に響くの終焉

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185/194

(185) 陽号に立つ

 午後の陽光が幕舎の外の空き地を斜めに照らしていた。

 陣営には短く鋭い号音と、蹄の打ち鳴らす音が響く。出撃の時が近づいている証だった。


 サイラスは俯き、馬鞍の紐や留め具を丹念に確認していた。指の節がわずかに白んでいる。

 彼が顔を上げると、遠くには既に兵が隊列を組み始めており、火縄銃の銃身が陽の光を鋭く反射していた。


 その時、静かにヴェロニカが歩み寄る。手には最終確認済みの地図。

 その目には、冷ややかでありながらも揺るぎない覚悟が宿っていた。


「配置は完了したわ」

 その声は冷たく静かだが、耳に残るほどに明瞭だった。

「計画通り、南の丘陵を迂回して林道に入り、信号は二度。日没までに指定地点へ到達しないと、包囲の恐れがある」


 サイラスは地図を受け取り、赤で記された潜行ルートに目を通した。

 ヴェロニカのまなざしが揺れる。唇を引き結んだまま、彼女はそっと言った。

「……もう、退く余地はない」


 サイラスは地図の一点を指で押さえ、それはまるで己の胸に誓いを打つかのようだった。


「わかっている」

 彼の声は静かだったが、そこに迷いはなかった。


 背後からアレックが一歩前に出て、かすれた声を絞り出す。

「殿下……俺が共に行きます」


 サイラスは彼を見て、低く、静かに言った。


「アレック」

 そして、続ける。

「……もし俺が戻らなければ、お前が彼らを守ってくれ」


 その一言は、鋼の如き重さを持ち、帳内の空気を一変させた。

 アレックの肩がかすかに震え、やがて深く頭を垂れる。


「……承知しました」


 サイラスは彼の肩に手を置く。その力は、静かでありながら重く──無言の信頼と託しだった。


 ヴェロニカは彼らを見つめていたが、やがて小さく息を吐き、顔を背けた。

「……出撃の時間が近い」


 サイラスはアレックの肩から手を離し、馬へと歩き出す。

 風が彼のマントをはためかせ、乾いた土に灰色の埃を巻き上げる。


 陽光が彼の影を長く引き延ばし、それはまるで、生死を分かつ境界線のように地面に刻まれていた。


 その時──


「サイラス!」

 駆け寄る足音と共に、その声が空気を裂いた。

 エレの声だった。


 サイラスの足が一瞬止まる。だが彼は振り返らず、手にした手綱を強く握りしめる。

 エレは必死に駆け寄ろうとしたが、衛兵に両側から制止される。


「どいて! 行かせて、お願いっ……!」

 その叫びは、嗚咽を混じえた悲痛な声だった。


 アレックは眉をひそめ、深く息を吐きながら、その光景を見つめていた。

 その表情には、堪えきれぬ痛みが滲んでいた。


 サイラスは振り返らない。ただ、深く息を吸い、右手をゆっくりと掲げる。

 静かに、力強く、けれどどこか優しさを湛えた手のひら。

 それは、まるで遠くからの、最後の別れを告げる手振りだった。


「やめて……っ!」

 エレの叫びは、やがて声にならなくなり、紅く充血した瞳で、その背中を焼きつけるように見つめた。

 サイラスは何も言わず、そのまま歩みを止めなかった。


 アレックは去っていく背に視線を落とし、歯を食いしばり、柄に手を添える。


「……戦神よ、どうか……」

「殿下を、勝利へ導きたまえ」


 風が、その祈りを抱いて、静かに舞っていった。



 衛兵に制止されたエレは、力なく軍帳へと戻された。


 帳内は薄暗く、熱がこもっている。

 エレはその場に立ち尽くし、震える指先を見つめていた。


 あの手を伸ばせなかった後悔の痛みが、まだ肌に残っているかのようだった。


 唇を噛み、嗚咽をこらえる。目を閉じれば、あの夢が脳裏に蘇る。

──戦場。火と血に染まった光景。

 彼はそこにいた。全身に返り血を浴び、片目を血に染めながら、それでも剣を掲げていた。


 そして、その剣の先にいたのは──ラファエット。

 白金の髪をたなびかせ、嘲るように口元を歪めていた。


「さあ、すべてを俺に捧げろ──」

 その瞬間、激しい光が二人を呑み込んだ。


「やめて……!」

 エレは叫びと共に目を見開いた。息が荒い。


 彼女はゆっくりとベッドに腰を下ろし、両手で顔を覆った。

「お願い……生きて、帰ってきて」


 その声は、砕けた風のように小さく、夜の帳に吸い込まれていった。

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