(185) 陽号に立つ
午後の陽光が幕舎の外の空き地を斜めに照らしていた。
陣営には短く鋭い号音と、蹄の打ち鳴らす音が響く。出撃の時が近づいている証だった。
サイラスは俯き、馬鞍の紐や留め具を丹念に確認していた。指の節がわずかに白んでいる。
彼が顔を上げると、遠くには既に兵が隊列を組み始めており、火縄銃の銃身が陽の光を鋭く反射していた。
その時、静かにヴェロニカが歩み寄る。手には最終確認済みの地図。
その目には、冷ややかでありながらも揺るぎない覚悟が宿っていた。
「配置は完了したわ」
その声は冷たく静かだが、耳に残るほどに明瞭だった。
「計画通り、南の丘陵を迂回して林道に入り、信号は二度。日没までに指定地点へ到達しないと、包囲の恐れがある」
サイラスは地図を受け取り、赤で記された潜行ルートに目を通した。
ヴェロニカのまなざしが揺れる。唇を引き結んだまま、彼女はそっと言った。
「……もう、退く余地はない」
サイラスは地図の一点を指で押さえ、それはまるで己の胸に誓いを打つかのようだった。
「わかっている」
彼の声は静かだったが、そこに迷いはなかった。
背後からアレックが一歩前に出て、かすれた声を絞り出す。
「殿下……俺が共に行きます」
サイラスは彼を見て、低く、静かに言った。
「アレック」
そして、続ける。
「……もし俺が戻らなければ、お前が彼らを守ってくれ」
その一言は、鋼の如き重さを持ち、帳内の空気を一変させた。
アレックの肩がかすかに震え、やがて深く頭を垂れる。
「……承知しました」
サイラスは彼の肩に手を置く。その力は、静かでありながら重く──無言の信頼と託しだった。
ヴェロニカは彼らを見つめていたが、やがて小さく息を吐き、顔を背けた。
「……出撃の時間が近い」
サイラスはアレックの肩から手を離し、馬へと歩き出す。
風が彼のマントをはためかせ、乾いた土に灰色の埃を巻き上げる。
陽光が彼の影を長く引き延ばし、それはまるで、生死を分かつ境界線のように地面に刻まれていた。
その時──
「サイラス!」
駆け寄る足音と共に、その声が空気を裂いた。
エレの声だった。
サイラスの足が一瞬止まる。だが彼は振り返らず、手にした手綱を強く握りしめる。
エレは必死に駆け寄ろうとしたが、衛兵に両側から制止される。
「どいて! 行かせて、お願いっ……!」
その叫びは、嗚咽を混じえた悲痛な声だった。
アレックは眉をひそめ、深く息を吐きながら、その光景を見つめていた。
その表情には、堪えきれぬ痛みが滲んでいた。
サイラスは振り返らない。ただ、深く息を吸い、右手をゆっくりと掲げる。
静かに、力強く、けれどどこか優しさを湛えた手のひら。
それは、まるで遠くからの、最後の別れを告げる手振りだった。
「やめて……っ!」
エレの叫びは、やがて声にならなくなり、紅く充血した瞳で、その背中を焼きつけるように見つめた。
サイラスは何も言わず、そのまま歩みを止めなかった。
アレックは去っていく背に視線を落とし、歯を食いしばり、柄に手を添える。
「……戦神よ、どうか……」
「殿下を、勝利へ導きたまえ」
風が、その祈りを抱いて、静かに舞っていった。
◆
衛兵に制止されたエレは、力なく軍帳へと戻された。
帳内は薄暗く、熱がこもっている。
エレはその場に立ち尽くし、震える指先を見つめていた。
あの手を伸ばせなかった後悔の痛みが、まだ肌に残っているかのようだった。
唇を噛み、嗚咽をこらえる。目を閉じれば、あの夢が脳裏に蘇る。
──戦場。火と血に染まった光景。
彼はそこにいた。全身に返り血を浴び、片目を血に染めながら、それでも剣を掲げていた。
そして、その剣の先にいたのは──ラファエット。
白金の髪をたなびかせ、嘲るように口元を歪めていた。
「さあ、すべてを俺に捧げろ──」
その瞬間、激しい光が二人を呑み込んだ。
「やめて……!」
エレは叫びと共に目を見開いた。息が荒い。
彼女はゆっくりとベッドに腰を下ろし、両手で顔を覆った。
「お願い……生きて、帰ってきて」
その声は、砕けた風のように小さく、夜の帳に吸い込まれていった。




