(183) 銃火に刻むの突撃
夜の帳が次第に深まり、戦場には霧が潮のように広がっていた。
前線の仮設指揮所は、なだらかな土塁の裏に設けられ、泥に突き立てられた松明が不安定な赤い光を揺らしている。
その灯りに照らされるのは、疲れと覚悟を湛えた数人の顔。
「……ここ、か?」
アレックが低く尋ねる。
サイラスはしゃがみ込み、粗く描かれた地図を指差しながら、低い声で答えた。
「敵の中軍は、最近この辺に集結している。この防衛線は薄い。レオンは正面で奴らを削っている。俺たちは、側面から陣を崩す」
アレックは前方の闇を見据え、わずかに眉をひそめる。
「主力は半里ほど後退した。敵を誘うためだ。こっちがさらに深く入れば、撤退に時間がかかるぞ」
「時間は交渉の切り札だ」
サイラスの声は静かだった。
琥珀色の瞳に、火の光が揺らめく。
「一度、穴を開ければいい。あとはレオンが刈り取るだけだ」
傍らにいた火銃隊の小隊長が前に出て報告する。
「殿下、霧がまた濃くなってきました。視界が極端に狭いです」
サイラスは顔を上げ、闇の中をじっと見渡した。
「銃火の光を目印にさせろ。二射したら、すぐ撤収だ」
「はっ!」
アレックは銃床を握りしめながら、サイラスを横目で見る。
「……殿下は、覚悟はできてるのか?」
サイラスはすぐには答えず、沈黙のまま、親指で剣の柄をなぞった。
陰のような表情の奥に、彼は一つの記憶を辿っていた。
──異世界の公園。
──エレの顔。
──そして、最後に握られた手の温もり。
「……終わらせる」
ぽつりと呟く。
「この戦、これ以上は引き延ばせない」
アレックはその横顔を見て、一瞬複雑な感情を瞳に浮かべたが、結局小さく「……ああ」とだけ返した。
次の瞬間、松明が低く伏せられ、戦鼓が微かに鳴る。
低く短い号令が、静かに広がった。
帝国の側面突撃部隊が、ぬかるんだ丘陵を静かに進軍していく。
火薬袋が銃身に擦れる音。
兵士たちは息を殺し、顔には恐怖と決意が入り混じっていた。
夜風は頬を裂くように冷たい。
サイラスは後ろの若い火銃兵たちを一瞥し、静かに言った。
「ついてこい」
そして剣を握り、彼らを導いて、黒き闇の中へと溶けていった。
◆
霧はさらに濃くなっていた。
夜の闇の中、火銃の火光がかすかに瞬き、第二射が冷静に行われる。
短く鋭い炸裂音が響き、敵陣からは混乱と怒号が返ってきた。
「──あっちだ! あそこにいる!」
叫びは霧の中で方向感を失い、敵の隊列は明らかに乱れている。
アレックはそれを見て、声を抑えたまま呟く。
「──うまくいったな」
サイラスは無表情のまま、手を上げて撤退の合図を送った。
「銃を収めろ、撤退する」
火銃隊は一言も発せず、分隊長の合図で迅速に動き出す。
霧が、彼らの退路を完璧に隠していた。
遠くから、かすれた角笛の音が聞こえる。
──サルダン軍の指揮が異常に気づいたのだ。再編命令が飛んでいる。
サイラスはその混乱する火光の塊を一度だけ振り返り、その瞳に、鋼のような冷たい光を浮かべた。
「──あとは任せたぞ、レオン」
そう言い残して、彼はアレックと火銃隊を率いて、霧の奥へと消えていった。
◆
しばらくして、別の方角から、戦線が激しく動き始めた音が届いてくる。
主軍が、反撃に転じたのだ。
サイラスは足を止め、耳を澄ませた。
アレックも耳を傾け、やがて言った。
「主軍が動いた。ヴェロニカ率いる側面部隊も、そろそろ押し始める頃だ」
「……」
「殿下、前線へ出ないのですか?」
サイラスは剣の柄を強く握りしめ、深い目をして答える。
「まだだ」
「……何を待ってる?」
「奴を、だ」
アレックは一瞬だけ目を見開いたが、それ以上は訊かなかった。
濃霧の中、サイラスは見えぬ空を仰ぎ見た。
その喉が固く鳴る。
脳裏に、帳の中でエレが言ったあの言葉がよみがえる。
──もし……彼女があなたを人質にしようとしたら……
──どうか……自分を最優先にして。
彼は目を伏せ、ほんの一瞬、苦痛の色が瞳に浮かんだ。
「……わかってる」
その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
そして、大きく息を吸う。
「だが……俺自身の手で、終わらせたい」




