(181) 陣旗に集うの号令
アレックは一瞬黙し──やがて静かに頷いた。
「……分かった。敵の巡回に見つからぬ抜け道がある。ついてきてくれ」
彼はすぐさま身を翻し、迷いのない足取りで森を進む。まるでこの地に長らく馴染んできた幽霊のように、音もなく木々の間をすり抜けてゆく。
サイラスはエレの手を握りつつ、低く尋ねた。
「歩けるか?」
「……うん」
エレは小さく頷いた。足は既に棒のように重かったが、今は弱音を吐いている時ではない。
道中、アレックが振り返りながら低く告げる。
「この先、味方の斥候が二人待機している。合図に灯りを点すが──驚かぬように。敵にはまだ我らの動きは知られていない、急ぐぞ」
サイラスは無言で頷き、表情を引き締める。
やがて最後の茂みを抜けた瞬間、林の側面から数騎の騎士が現れた。
火槍が風に揺れ、その炎が誇り高き白薔薇の紋章を浮かび上がらせる。先頭の騎士はアレックの合図に応じて馬を止めると、すぐに数人が馬を下り、一頭を差し出した。
「殿下……!」
騎士たちの声には、抑えきれぬ驚きと歓喜が滲んでいた。
一人の騎士が小声で言う。
「……生きておられるとは……本当に……」
サイラスは深く多くを語らず、ただ静かに頷いた。そしてエレを馬に乗せ、自身も鞍へと身を預ける。
アレックから手渡されたマントを彼女の肩に掛けると、そのまま馬を走らせた。
夜の闇に、蹄の音が規則正しく響く。
騎士たちに護られながら、彼らは丘陵を越え、森を抜け──
ついに、遠くに広がる陣営の旗と輪郭が見えた。
彼らの戦場に、戻ってきたのだ。
陣の入り口に差し掛かると、衛兵たちが身構えたが、アレックとサイラスの顔を見てすぐに武器を下ろす。驚愕が表情に走った。
「王子殿下……!?」
「ヴェロニカ様に知らせろ! 殿下がご帰還された!」
下馬したサイラスたちは、騎士たちに護られつつ、まっすぐに本陣へと向かう。
主帳の前で、ヴェロニカが駆け寄ってきた。
一目でサイラスの顔に残る血の痕を見て、その目が凍ったように強張った。
だが歩みに乱れがないこと、息が整っていることを確認すると、わずかに安堵の色を浮かべた。
「……中へ」
彼女は多くを語らず、無言で彼らを中へと導く。
主帳の中では数人の騎士がすでに待機していた。
アレックも後に続き、エレはサイラスの側で、やや緊張した面持ちで立っていた。
「戦況は?」
サイラスが真っ直ぐに問う。
ヴェロニカは即座に答える。
「レオン伯爵が前線にて指揮を執り、ノイッシュが火銃隊を率いて応戦中です。現在、サルダン軍との交戦は膠着状態……恐らくは、消耗戦へと移行するでしょう」
サイラスは冷静に頷くと、すぐに言った。
「まだ敵は俺が戻ったとは気づいていない。アレック、側面から回り込んで布陣を崩す。奇襲をかけるぞ」
「……戻ったばかりで、一息つく暇もなく出陣するつもりか」
アレックは眉を寄せ、声がわずかに低くなる。
エレも何か言いかけたが、サイラスはその視線を受け止めつつ、断ち切るように言った。
「今を逃せば、次はない」
ヴェロニカは唇を噛み、悔しさを堪えるように視線を逸らした。
だが反論はなかった。彼の言葉が、最も的を射ていることを理解していたからだ。
帳の中に一瞬、沈黙が落ちる。
燭火が揺らぎ、数人の顔を淡く照らす。
その時、エレが一歩前に出た。
息を整え、小さな声で──だがはっきりと口を開く。
「……あの日、私があなたを見つけられたのは──リタが、伝言を残してくれたから」
サイラスが顔を向け、彼女をじっと見つめる。
「薬草の間に……あなたの左眼の印を描いたものが挟まってたの。彼女は……あなたに危機が迫ってることを、私に教えようとしてくれた」
彼女の声は震えていた。
サイラスは何も言わず、ただ目を細める。その眼差しには、何かを思い出し、そして飲み込んだような影があった。
エレは唇を噛みしめ、なおも続ける。
「きっと、彼女は脅されていた。サルダンの間諜に──今もまだ、囚われているかもしれない」
彼女は真っ直ぐに彼を見た。その瞳は不安と祈りに揺れていた。
「もし……また彼女と戦場で再会して、彼女があなたを人質にしようとしたら……」
ついに彼女の声が震え、だがそれでも言い切った。
「……あなたは、ためらわないで。どうか……自分を最優先にして」
帳内の空気が微かに揺らぎ、ヴェロニカもその言葉に反応し、視線を彼女に向けた。
サイラスは黙って彼女を見つめ──
やがて、ゆっくりと手を伸ばし、彼女の白くなった手を静かに握りしめる。
「……分かっている」
低く掠れた声が、それでもはっきりと響いた。
エレは唇を噛み、目に涙を浮かべながらも、しっかりと頷いた。
サイラスは手を離し、アレックと騎士たちへ向き直る。その声には、いつもの冷徹さが戻っていた。
「部隊を招集しろ。騎士、火銃隊、斥候、すべて整備を終えて待機。──俺の号令を待て」
「はっ」
アレックは複雑な表情を浮かべながらも、静かに応じる。
ヴェロニカは息を吐き、彼の背を見つめる。喉がわずかに動いたが、何も言わず、背を向けて伝令へと向かった。
主帳の中に残ったのは、エレとサイラス、ただ二人だけ。
「……必ず、帰ってきて」
彼女の声は小さいが、澄んでいた。
サイラスは彼女を見つめたまま──笑わず、ただ低く、しかしはっきりと答えた。
「……必ずだ」
彼は背を向け、マントが炎の揺らめきに照らされて弧を描いた。




