(180) 闇林に燃ゆの志
光が消えた時、そこに広がっていたのは──
深く沈んだ闇と、静まり返った冷たい森だった。
乾いた冷気が肌を刺し、足元には湿った土の感触。
つい先ほどまで満ちていた都市の匂いはすでに消え、今や残るのは、草葉と朽ち葉のほろ苦い香りのみ。
サイラスはその場に膝をつき、激しく咳き込むと、口から血を吐いた。
「サイラス!」
エレが叫び、慌てて膝をつき、彼の肩に手を添える。震える肩に手を当てながら、息を呑んだ。
「どこか傷ついたの? 返事して……!」
彼はすぐには答えず、口元の血を手の甲で拭い──
そのまま指が頬を滑り、鮮やかな紅が左眼から流れ落ちた。
青ざめた肌の上に、それはあまりに鮮烈で。
「……大丈夫だ」
喉を震わせるような掠れた声で、彼はようやく言った。
「……転移の際、無理をしたせいだろう」
彼はふらつきながらも立ち上がり、袖で乱雑に血を拭った。
左眼を細めながら、周囲に目を走らせる。
あたりは一面の闇。
濡れた落ち葉と、鬱蒼とした林が視界を覆い尽くしている。あの公園は──もう存在しなかった。
地面に描かれていた紋章の痕跡すら、今はどこにも見当たらない。
霧は消え、風も止み、聞こえるのは彼らの息遣いだけだった。
「……戻ってきたな」
サイラスは静かにそう言うと、すぐにエレの腕を取り、立ち上がらせる。
「ここに留まるのは危険だ。まだ今がどの時、どの戦況か分からない──まずは本隊と合流を目指す」
何か言いかけたエレだったが、彼のその強い意志を感じ取ると、黙って頷いた。
二人は密林の中を進んだ。
月光が木々の隙間から差し込み、わずかな光で足元を照らすが、進むべき道を示すには足りない。
火を焚くこともできず、彼らは星の位置と地形を頼りに進む。
森には重く湿った空気が漂い、息を吸うたび、葉や土の匂いが肺に染み込む。
「……もし、ここで出くわすのが味方でなかったら……」
エレが声を落とす。
「最悪の事態だ」
サイラスの返答は冷たく、そして迷いがなかった。
彼は歩きながら、左眼を押さえる。
すでに血は止まっていたが、痛みはなお消えず、視界の端が黒く滲んでいる。
彼は理解していた。
この「帰還」が、ほんの少しの血や苦痛で済むものではないことを──
夜風が木立を鳴らし、木々の影がまるで亡霊のように揺れる。
霧は消えたはずなのに、なおこの世界には、異質な静寂が残されている。
濡れた土の上を踏みしめるたび、僅かな音が暗闇に響き渡り、どこかで何かが蠢いているような錯覚に襲われた。
サイラスは片腕でエレを支えながら、もう片手で剣を握る。
左眼の痛みはまだ続いており、視界はまだ不安定だった。
彼は囁くような声で言う。
「離れるな。物音は立てるな」
エレはこくりと頷いたが、彼の呼吸が未だ乱れているのを感じ取っていた。
異界を渡ったその痛みが、どれほどの負担だったか──彼女には想像もつかなかった。
やがて、獣道は細くなり、森の闇がさらに濃くなる。
その時、不意に草叢から何かが動く音が聞こえた。
二人は同時に足を止め、サイラスは反射的にエレを背に庇いながら、剣を抜いた。
その刹那──
低く押し殺した声が、前方から届いた。
「……殿下?」
それは、かすれていながらも聞き慣れた声だった。
警戒の色を帯びていたが、どこか安堵が混じっていた。
木陰から、ゆっくりと人影が現れる。
月光に照らされた緑の髪──それは、アレックだった。
彼の表情は険しく、鋭い目で二人を見極めた後、ようやく剣を収める。
「……ようやく戻ったか」
その額に深い皺を刻みながら、彼は言った。
「二晩、ずっとお前たちを捜していたんだ」
「……戻った」
サイラスは低く答えたが、剣を納めようとはしなかった。
まるで、いまだ信じきれないように。
アレックは一歩前へと進み、サイラスの顔に残る血痕と、エレの疲れた表情を見て、ほんの少しだけ険しさを緩めた。
「谷底に落ちたと聞いて、すぐに部隊を出した。
だが、いくら探しても見つからなかった。
その翌日──サルダン軍が大規模な進軍を開始した。まるでお前の不在を狙ったかのように」
彼は一瞬言葉を切り、視線をエレへと向ける。
「レオン伯爵の部隊は次々と退却を余儀なくされ、我々も後退した。
……だが、俺はどうしてもお前が近くにいる気がして、ノイッシュに殿を任せて、単独でここまで戻ってきた。
分かっていたんだ。──エレ嬢がきっと、殿下を追って来ると」
サイラスはそこでようやく気づいたように、顔を横に向けて言った。
「そうだ……お前はどうして、俺があそこにいると分かった?」
だが、すぐに首を振り、その問いを打ち切る。
「……いや、今はその時ではない。
答えは後でいい。まずは、陣へ戻ろう」




