(179) 光霧に還るの決意
食事の香りが、小さな部屋の中に広がっていた。
木製の低いダイニングテーブルの上には、出来立ての料理がぎっしりと並べられている。
つややかに揚げられた唐揚げ、数種類のスパイスで手間暇かけて作られたカレーは、香りだけで食欲をそそる。ルーは柔らかい白米の上にとろりと広がり、その上には黄金色にカリッと揚がった唐揚げが乗っている。
ふわふわのオムレツに包まれたコロッケ、クリーミーなドレッシングで和えられた野菜サラダ──どれも、リナが自ら作った手料理だ。
「これが……マミーがずっと言ってたカレーライス?」
エレは目を見開き、深い褐色のルーと白いご飯が混ざり合う様子をじっと見つめていた。まだ一口も食べていないのに、その香りだけで心をつかまれたようだった。
「そう、小さい頃は“泥みたい”って言ってたくせに」
リナはくすっと笑いながら、二人にスープをよそって言った。
「これね、市販のカレールウじゃないよ。二時間かけてスパイスを炒めて、ゆっくり煮込んだの。さ、熱いうちに食べて。冷めたら美味しくないよ」
二人がスプーンを取った瞬間、まるで時間が止まったようだった。
サイラスは一口食べると、目をわずかに見開き、そのまま無言で食べ続けた。
言葉こそなかったが、滅多に見せない穏やかな表情がすべてを物語っていた。
エレもまた、頬をほころばせ、まるで本当に「家に帰ってきた」子どものように幸せそうに食べ進めていた。
そんな二人の様子を見ながら、リナは目尻を潤ませつつも、ずっと笑顔を浮かべていた。
「こんなに美味しそうに食べてくれるなんて……頑張った甲斐があるよ……」
テレビの音が、部屋の片隅でささやくように流れていた。
──画面が切り替わり、戦火に包まれた異国の様子が映し出される。
ニュースキャスターは淡々と、政府軍と反政府勢力との衝突について語っていた。映像には瓦礫、煙、そして黒い銃口が映し出される。
エレは動きを止め、ちらりとテレビの画面に視線を向けた。
「……こっちの世界にも、戦争があるの?」
サイラスは長い間、無言で画面を見つめていた。
彼には、銃や爆発音、人々の叫び──それらの全てが、見知らぬようでいて、胸の奥に眠っていた何かを呼び覚ますものであった。
彼はそっとスプーンを置き、指先に力を込めた。
「……俺はここに、留まるわけにはいかない」
彼はリナ、そしてエレの方を見つめ、低く、しかし確かな声で言った。
「この場所に来て、まるで夢を見てるみたいだった。
平和な街、穏やかな陽射し、こんなご飯……それに、リナ様がいて、エレがいて、三人で家族みたいだった」
そう語る彼の声には、幸福を否定するような響きはなかった。むしろ、幸せを両手でそっと抱きしめ、それを静かに置き去るような口調だった。
「でも、ここは……俺が立ち止まっていい場所じゃない。
この時間は、神の恩恵で盗み取った一時の平穏に過ぎない。
だけど、願いを叶えるのに、神だけに頼りたくない。自分の意志で、それを掴みたいんだ」
彼は二人の方を見て、真っ直ぐに言った。
「ラファエットは、まだあの場所にいる。戦争も、苦しみも、俺たちが救えなかった人たちも……まだあそこにいる。
俺だけ、幸せになって終わるわけにはいかない」
エレは少しの間、黙っていた。
だがやがて、彼の手をそっと握りしめ、優しく微笑んだ。
「そう言うと思ったよ」
その瞳には、光が揺れていた。
「だから、私も一緒に戻るよ。どんな結末になっても、それは私たち二人で選んだ道だから」
「……ほんと、変わらないな」
リナは深く溜息をつき、箸を置いた。
「昔からそうだったよ。口は頑固だし、石みたいに意地っ張りなのに、人の痛みは全部自分の中に抱えて……」
彼女はエレの頭を撫で、優しく、けれどどこか楽しげに言った。
「二人が戻るのは分かってた。でも、それでいい。ここまで来られたことだけで、私はもう満足だよ」
「マミー……」
「今夜はゆっくり休みなさい。
明日の朝、もう一度あの公園に行ってみて。もしかしたら、神様がまた門を開いてくれるかもしれない。──今度は、あなたたち自身の意志で選びなさい」
夕食の後、夜の台所からは水音と食器の触れる音が静かに響いていた。
リナは袖をまくり、水槽の前で慣れた手つきで皿を洗っていた。
リビングでは、エレがソファで休んでいた。ふと視線をやると、サイラスがテーブルに座って例の光る板──リナが「タブレット」と呼んでいたもの──をじっと見つめていた。
「……それ、使えるの?」
思わず驚きの声が漏れ、エレは近づいた。
サイラスは彼女に一瞥をくれ、珍しく微笑んだ。
「“翻訳”って機能があった。ラテン語っていうのが、俺たちの筆記体に似ててさ。英語っていうのも、少しは読める」
「うそ……そんな便利なの?」
エレは目を見開いた。
「この板……なんでも入ってるんだね……」
「知識の宝庫だよ」
サイラスは指先で画面をなぞりながら、少し寂しげに言った。
「でも、電気とネットがないと使えない。これを持って帰れたら……きっと世界は一変するんだろうな」
エレは何も言わなかった。ただ静かに彼を見つめていた。
この世界のすべてが奇跡のようで──同時に、誘惑のようでもあった。
夜が更け、二人は寝室に入って休んだ。
やがてエレが寝返りを打ち、うっすらと目を開けると、リナが部屋の隅で、小さなテーブルに向かって何かを書いている姿が見えた。
何か尋ねようとしたが、睡魔が彼女を再び引き込み、そのまま目を閉じた。
翌朝──夜明け前の薄明かりの中、三人は例の公園に向かっていた。
草地には薄い霧がかかり、空気はひんやりとして静寂に包まれていた。
「これ、エレに」
リナは一冊のノートと、小さな箱を手渡した。
「ノートには、私が作れるレシピを書いておいたよ。昔作ったけど、まだ食べさせてないのもあるし。箱の中のは……必要になったら開けて」
エレはそれを受け取り、目元を赤くしながら言った。
「……大切にするね」
「ちゃんと彼に作ってあげて。ここで食べたのが夢じゃないって、分かるようにね」
三人は顔を見合わせて笑った。
だが、その笑顔の奥にある“別れ”の気配は、全員が理解していた。
サイラスは深く息を吸い、エレの手を取り、ゆっくりと力を込めた。
「目を閉じて、思い浮かべて──“帰る場所”を」
エレは彼の言葉に従い、そっと目を閉じた。
その瞬間、サイラスの左目に針のような痛みが走り、足元から光があふれ出した。
「……っ!」
エレは驚いて目を開き、彼を見た。
「大丈夫? 痛そう……」
「……平気だ」
サイラスはかろうじて笑みを浮かべつつ、リナの方を見やった。
彼は何も言わなかった。ただ、唇が静かに動いた。
リナは一瞬きょとんとし──そして、その言葉を読み取った。
──さようなら、マミー。
それは、かつて彼女が言った言葉だった。
(……いつか、アンタが本気で“マミー”って呼んでくれる日が来るのを)
リナは口元を手で覆い、溢れる涙を止めることができなかった。
それでも、力強く頷いた。
草地の中央に白い光が咲き、まるで霧のように二人の身体を包んでいく。
朝霧と光が重なり合う中、彼らの姿は少しずつ薄れていき──
──やがて、その世界から完全に姿を消した。




