(177) 陽光に踏み出す
白いパンにかぶりついた瞬間、二人は同時に動きを止めた。
「や、柔らかい……」
エレが小さく声を上げる。指先でパンの端をそっと押してみながら、まるで少し力を入れただけで潰れてしまいそうで、慎重そのものだった。
「焼いてない……? なのに、焦げた硬い端がないだと……?」
サイラスは眉をひそめながら、疑わしげにもう一口かじった。
その様子を見たリナは思わず口元を歪めて笑い、肩をすくめる。
「こっちじゃ、白パンは貧乏人の食べ物なのよ? 白ければ白いほど安いし、味も薄いの。」
二人は改めて、目の前の小さな現代の住宅を見渡した。
周囲には見たこともない金属やプラスチックの物体が並んでいる。大小さまざまな箱、壁に掛けられた黒い画面、角に積まれた奇妙な形の差し込み口と巻かれたコード──。
「それは……何?」
エレが小さく問いかける。
リナは気軽に一つずつ指差しながら答えた。
「テレビ、コンセント、ドライヤー、電気ポット……まとめて“電化製品”って呼ぶかな。“電気”っていうエネルギーで動くの。」
「電気……それは錬金術の変異系か?」
サイラスが眉を寄せて尋ねた。
「うーん、違うと思う。学校で習ったけど、現代人の九割は原理なんて忘れてるし。ま、要するに──すごく便利ってこと!」
リナの説明に、エレとサイラスは昨夜の「入浴体験」を思い出した。
あの銀色の管から熱いお湯が自動で噴き出したこと。浴室の温度や蒸気まで調整されていたこと──。
まるで神の加護でも受けたような空間だった。
「この世界のものは……すべて人のために作られている」
サイラスがぽつりと呟く。
彼はラファエットが語っていた異世界への憧れを思い出した。
──今なら、その気持ちも少しはわかる。だが、この「便利さ」を持ち帰るには、どれほどの代償が必要だろうか?
無意識に、彼の視線はリナへと向いた。
リナは手にした光る板をいじっていたが、ふと顔を上げ、サイラスの目に宿る迷いを見抜いた。
「……もしかして、私のこと“無知”って思ってる?」
その口調は冗談交じりで、でもどこか本気も混じっていた。
「……いや、そんなつもりは──」
リナはスマホをひょいと掲げてみせる。
「今の人間は、これさえあれば何でも知れるの。ネットで検索すれば答えがすぐ出る。誰も暗記なんてしないよ。でも──電気もネットもなきゃ、ただの鉄の板。何もできない。」
「……すまない」
サイラスは小さく頭を下げた。
「やっぱ思ってたじゃん!」
リナは泣き真似をしながら、画面を一瞥し、急に顔色を変える。
「わっ、ヤバッ! 今日、仕事だった! 休もうと思ったけど、急な案件が入ってて行かないとマズい!!」
そう叫びながらリナは跳ねるように立ち上がり、奥の部屋へと走っていく。
「家で大人しくしててね! あとで紙に電子レンジとテレビの使い方書いとくから! 私のパソコンには絶対触らないで! ネットショッピング開いたら、カードが爆発するから!!」
「カ……カード?」
「破産する魔法、ってとこかな!」
慌ただしく服を着替え、片手でイヤホンを挿しながら鞄を引っ掻き回すリナ。
「夜にはお惣菜買ってくるから。ゴミ出しお願い、あとトイレの水道は勝手にいじらないで、電話すればすぐ出るから!」
それだけ言い残して、彼女は風のように玄関から飛び出していった。
ドアの外で、鍵が「カチャッ」と鳴った音が、部屋に静寂を残す。
しばらくして──
エレが手に持った紅茶の紙パックからストローで一口吸い、小さく呟いた。
「……マミー、前よりずっと忙しそうだね」
サイラスは返事をせず、ただドアの方を見つめながら、ぽつりと漏らした。
「……ここが、本当の彼女の世界、なのかもしれない」
テレビをつけた瞬間、二人は同時に半歩下がった。
画面には、色とりどりの映像が映し出され、奇妙な衣装を着た人たちが大きな声で何かを話している。
画面には時折、文字の入った枠や標語のようなものも現れる。
「……聞き取れる」
エレが驚き気味に言った。
「言語が通じている……もしかしたら、リナが俺たちの言葉を覚えたことが、逆に君に影響しているのかもしれない」
サイラスは考え込むように言った。
だが、画面下部に表示されている四角い文字は、まるで呪文のようで一つも読めない。
エレが読み上げようとする。
「カ……ン……ケ……イ……?」
「地名か、人の名前……?」
サイラスは眉をひそめたまま、その文字列を凝視した。
彼はふと、テーブルの上に置かれたリナのメモに手を伸ばす。
──その文字は、まるで風に舞っているように歪んでいて、紙から逃げ出しそうな勢いで自由奔放だった。
「……これはさすがに読みづらいな」
エレが苦笑しながら言う。
「小さい頃、マミーもこういう字ばっか書いてくれたの。わざと汚く書いてるのかと思ってた」
サイラスはため息をひとつつき、紙を置くと、部屋の隅にある銀色の機械へ向かい、昨晩洗った衣類を取り出した。
「……着替えるの?」
エレが問いかける。その目がわずかに不安そうに揺れた。
サイラスはズボンを履き、シャツに袖を通しながら、振り返って微笑んだ。
それは久しぶりに見せる、少年のような笑顔だった。
「エレ、君はどう思う?」
袖口を整えながら、彼は言う。
「せっかく来たんだ──ちょっとぐらい、冒険してみたくない?」
エレは目を見開き、数秒の間、ただ彼を見つめていた。
──そして、ゆっくりと口元が綻ぶ。
「……やっぱり、全然おとなしくしてられない人だね」




