(174) 聖光に開くの門
夜明け前、まだ陽は昇らず、薄霧が草原を覆い尽くしていた。
視界は次第にぼやけ、全てが灰色に沈む。
サイラスは手綱を強く握りしめ、前方の焦土と立ち昇る煙を見据えた。
眉間に皺が寄る。
──順調すぎる。
側面突破も補給線の遮断も、あまりにも容易かった。
ヴェロニカ率いる騎兵隊は敵中軍を抑え、レオン伯爵の本隊は正面を圧迫している。
全体の流れは理想的だ。
だが──
この霧は、不自然だ。
「……湿度が変だ。」
低く呟くと、近くの騎士が怪訝そうに顔を向けるが、すぐに前を向き直した。
鼻をかすめる空気に混じるのは、冷たい朝霧特有の清澄さではなく、何かの香気。
薬草、油脂、そして微かな鉄錆と腐敗の匂い。
──調教用の惑香だ。
軍で獣を攪乱する時に使うが、戦場でこれが漂う理由は一つしかない。
「……作られた霧か。」
目を細める。心拍がゆっくりと沈む。
「全隊、止まれ。後退──」
声を張り上げた瞬間、足下が崩れた。
「危ない!」
前方で誰かが叫ぶ。
地面が流砂のように崩れ落ち、馬の脚が空を切った。
サイラスの視界が反転し、風が耳を裂く。
「殿下!」
「王子様!」
上からの叫びがかすれる中、背中を岩肌に打ちつけ、ゴロゴロと転がる。
痛みに息を呑むが、必死に馬の首を抱え込み、衝撃を和らげた。
馬が痛鳴をあげ、前脚を引きずる。捻ったか。
「……大丈夫だ。」
サイラスは荒い呼吸を整え、上を見上げた。
「下りるな!足場が崩れる!ヴェロニカに伝えろ、ここは伏兵の可能性がある!」
剣を抜き、周囲を睨む。
──敵は待っていた。
この霧を、彼を、待ち構えていた。
息を吸い込んだ瞬間、左目が疼く。
「……ッ」
眼窩の奥で熱が走り、何かが呼ぶ。
地面から、霧の底から、低い囁きが響く。
その時、霧の中に光が灯った。
剣を構えたサイラスは動きを止める。
炎でも、金属でもない。
──紋章だ。
円環の古い紋様が、霧の中でゆっくりと回転していた。
自分の左目に刻まれたあの図形。
「……どういう……」
一歩踏み出すと、それが僅かに明滅した。
誘うように、拒むように。
胸が締めつけられる。
左目に激痛。熱が脳を刺す。
「──来たか。」
霧の奥から声が落ちた。
低く、笑いを含む声。
白いマントが風に翻る。
銀の首飾りが鈍く光り、金髪を綺麗に撫で付けた男が現れる。
その目は霧より冷たく、光より空虚だった。
「ラファエット。」
サイラスは即座に剣を向けた。
同時に、霧の奥から火縄銃の火帽が赤く光る。
ラファエットの背後に数名の親衛が銃を構えていた。
「動くな。」
ラファエットは冷ややかに、しかし穏やかに笑う。
「また会えるとは思わなかったな?」
周囲を見渡し、霧の中の地形を愉しむように眺める。
「君らしいよ、こういう所まで追ってくるなんて。」
「冷静さを欠くと、こうなる。」
言葉は柔らかだが、はっきりと嘲笑が滲んだ。
サイラスは黙って剣を構える。
ラファエットは肩を竦め、後ろの紋章を顎で示す。
「見覚えがあるだろう?」
「……これは何だ。」
「罠じゃない。」
軽く鼻を鳴らすように笑った。
「偶然見つけたんだ。『神賜の力』に繋がる場所らしい。」
「最初に見たとき、思ったよ──これは門だ。」
視線を鋭くする。
「異世界へ通じる扉だ。」
霧が揺れた。
空気が振動し、砂を巻き上げる。
召喚の予兆のように。
「本当は招待するつもりだったが……君は乗らないだろうと思った。」
片眉を上げ、微笑む。
「だから落ちてもらった。」
サイラスは後退ろうと足を引く。
「──パン!」
銃声。足下の石が砕ける。
砂利が飛び散る。
「動くなよ。」
ラファエットは優しい声で囁く。
「君の反応が早いか、こいつらの火索が早いか。」
霧の中、銃口がいくつも光った。
彼は吐息を吐く。
──包囲されていた。
「誤解するな。」
ラファエットの声が落ち着く。
「殺す気はない。お前は門を開ける『鍵』だから。」
サイラスの左目が熱を帯び、視界が歪む。
痛みが焼き付く。
──開け、という声が脳を叩いた。
「……感じてるだろう?」
ラファエットは囁くように言った。
パンッ──!
銃声。弾丸が心臓を狙う。
サイラスは本能で身を捩り、剣を振るって砂を巻き上げる。
「撃て!」
火帽が弾け、複数の銃口から火花。
左目が血走り、赤い光が溢れる。
「……ッ!」
指先が痙攣する。
鮮血が流れ、紋章が肌を割って浮かび上がった。
──風が変わる。
霧が外に弾け飛ぶ。
「……!」
銃声が止む。
サイラスは低く唸り、立ち上がった。
左目は金色に輝き、剣を握り直す。
「近寄りすぎたな、ラファエット。」
その声は氷のようだった。
踏み込む。
大地の紋章が爆ぜ、赤と金の光柱が立ち上る。
「退け!退けぇ!」
悲鳴が上がるが遅い。
斬撃の衝撃波が銃兵をまとめて吹き飛ばした。
砂が焼け焦げ、深い溝が刻まれる。
ラファエットの笑みが消える。
「……もう使えるのか。」
サイラスは何も言わずに迫った。
だが──
喉を焼くような刺激が駆け上がる。
視界が滲む。
「……麻痺草か。」
顎を噛み締めた。
呼吸が重く、手が痺れる。
「惜しいな。」
ラファエットは息を吐き、腕を下ろす。
「君の一撃は見事だった。でも、無策で待ってるほど馬鹿じゃない。」
──霧に混ぜてあった。
ゆっくりと退くラファエットを見据えた時、
紋章が白光を放った。
──ゴォォ……
轟音。
砂を巻き上げる渦が地面に走り、空が白で塗り潰される。
光の嵐が視界を奪った。
「……!」
サイラスは思わず腕で目を覆った。
そして──
そこにいた。
光の中、風を裂くように駆ける人影。
マントが翻り、恐怖と決意を湛えた顔。
「……エレ?」
幻か現実かも分からない。
だが──その腕が、自分を抱き締めた。
暖かく、確かな感触。
「サイラス!」
耳を震わせたその声を最後に、
全ての感覚が光に呑まれた。
──異界の門が、開いた。




