(173) 霧中に響くの覚悟
エレは少し離れたところに立ち、地図を挟んで低声で話し込むサイラスとヴェロニカをじっと見つめていた。
サイラスの表情はいつも通り冷静で、指先で布陣の線を描く様子は迷いがなかった。
その横顔を見ながら、ふと「彼はあの時、『お前は彼女じゃない』って言ったな」と思い出し、
──なにそれ、可笑しいじゃない。
自嘲するように口元が緩む。
本当に、自分は彼にちょっと優しくされただけでこんなに揺れるなんて、ただの子供みたいだ。
「……何を笑ってる?」
不意にサイラスが顔を上げた。視線に気づいたらしい。
エレは慌てて目を瞬かせて誤魔化そうとしたが──
「また集中切らしたわよ、殿下。」
ヴェロニカが冷たい声で釘を刺す。
その調子は淡々としていながら、どこか意地悪だった。
サイラスは肩を竦め、言い返しもせず。
「……もういいわね、今日はここまで。」
ヴェロニカはペンを机に投げ出すように置く。
「二人とも少し休みなさい。私、外の空気吸ってくる。」
そう言って幕をくぐると、ちょうどレオン伯爵と鉢合わせた。
「お、探してたところだ。」
彼は彼女の後ろを一瞥し、何か察したように口元を歪めた。
「で?次の作戦方針は?」
「……まだ決まってない。」
ヴェロニカは素っ気なく返す。
レオンは目を細めてしばらく観察するように見つめ──
「……その顔で終わり?」
「……何の話。」
「いや、なんでも。」
レオンは笑い、肩を揺らした。
「ただ、うちの家もこの代で終わりかもなーってな。」
「戦が終わったら婿でも取れば?」
ヴェロニカの声は乾いていた。
「……サニールみたいな軽薄なのは要らないけど。」
レオンは一瞬目を丸くし、眉を上げた。
「お前がそんな正直なこと言う日が来るとはな。」
ヴェロニカは黙り込んで、ふっと後ろを振り返った。
幕の向こう──そこにいる二人を思う。
──私のこれは、たぶん恋じゃない。
名前を付けられないものが、ただずっと心の奥に根を張っているだけ。
幕内には揺れる灯火だけが残り、地図の山脈線や赤い印をぼんやりと浮かび上がらせていた。
サイラスは身をかがめ、サルダン軍本陣の位置をじっと見つめていた。
指先が「将帥帳」と書かれた小さな円に触れる。
低い声が漏れる。
「……もう待てない。」
その言葉にエレは目を上げた。
「サルダン軍の補給は混乱してる。もう数度押し込めば、撤退か、あるいは総力戦を仕掛けざるを得なくなる。」
サイラスの声は冷静で、だが明らかに決意が滲んでいた。
「その前に動く。主導権はこちらが握る。」
彼は駒をレオン軍の位置に動かす。
「レオンの主力と正面からぶつかる。敵が陣を広げた瞬間、隙ができる。」
エレは眉を寄せた。
「その隙を突くの?」
「そうだ。」
サイラスは頷き、横の谷間を指差した。
「ヴェロニカは本陣を守りつつ、騎兵を側面に回す。敵将が前線に出た瞬間、指揮系統を断ち切る。」
淡々とした説明なのに、その声には張り詰めたものがあった。
これは単なる作戦ではなく、覚悟だ。
「……あの人を、自分の手で討つつもりなのね。」
エレの問いに、サイラスは否定しなかった。ただ小さく、はっきりと。
「……ああ。」
そのとき、外から伝令の声と足音が近づく。
「レオン伯爵、本隊準備完了!」
サイラスは立ち上がり、エレを振り返る。
「すぐ戻る。」
エレは何も言わず、その背中を見送った。
小さな声だけを投げる。
「……待ってる。無事に帰ってきて。」
振り向いたサイラスは一瞬だけ笑った。
王族らしい冷たい鋭さの奥に、隠しきれない優しさを滲ませて。
夜明け前の霧はまだ晴れず、戦旗が湿った空気を裂くようにはためく。
レオンの主力部隊は黒い鎧を光らせ、重く冷たい軍鼓の音に合わせて前進した。
サイラスは並んで馬を走らせ、遠くのサルダン軍の輪郭を見据える。
まだ眠った獣──目覚めれば地獄をもたらす相手。
「まだ気づいてないな。」
レオンの声は低い。
サイラスは短く吐き捨てるように返した。
「なら、目を覚ます時に見せてやれ。──終わりだとな。」
剣を抜き、前を指し示す。
矢の雨が降り注ぎ、火油が爆ぜて柵を燃やす。
煙と炎が夜を裂き、サルダン軍陣内に混乱が走る。
号角が鳴り響き、敵兵がうろたえる中、騎兵隊が側面から切り込む。
その勢いは、まるで布を裂く刃のように鋭かった。
サイラスは馬を飛び降り、ノイッシュ、アレックら精鋭を率いて敵中軍を目指す。
最初の防衛線を突破したその時──
彼は不意に足を止めた。
剣先を少し下げ、鋭い目で右手の霧に覆われた丘陵を睨む。
「……おかしい。」
風向きが変わった。
敵の動きは鈍いくせに、整いすぎている。
まるで「獲物を待つ罠」だ。
「ノイッシュ、アレック。」
二人が即座に近寄る。
「第二隊を率いて北から回れ。異常があれば深入りするな、すぐ報告しろ。」
「了解。」
「ヴェロニカの隊は?」
「陣を守り切れる。俺は南に回って敵将を探す。」
そう低く告げ、再び馬に飛び乗る。
「……静かすぎる。」
数名の近衛が続く。
霧を切り裂くように、彼は南へ駆けた。
そのころ別の場所──
砂混じりの風が吹く中、エレは野営地の外れを歩いていた。
石積みを回り込んだところで、不意に足を止める。
地面に刻まれた、見覚えのある三つ葉のような印。
それは指先でそっと砂に描く「合図」──リタと交わした、信頼と別れのサイン。
胸がどくりと鳴る。
周囲に目を走らせ、人影はない。
しゃがみ込み、裾を直すふりをして砂を払う。
そこに小さな紙片が埋まっていた。
少し湿っているが、文字は読めた。
「罠。 危」
「刀 → 紋」
あの紋様。サイラスの左目の刻印にも似たそれが、意味を強調する。
エレは指先を震わせながら紙を握りしめ、顔を上げた。
迷っている時間はない。
彼女はすぐに幕へ戻る。
出入り口で警備の騎士たちに呼び止められた。
「エレ様、どちらへ──」
「前線から報告があった。殿下の隊が本隊から逸れ、負傷者も出ている。今すぐ向かう。」
「でも、ヴェロニカ様からは──」
「サイラス様の命令だ。」
冷たい声で言い切る。
「名前も、位置も伝えようか?」
騎士たちは目を見交わし、一人が頷く。
「……承知しました。すぐ馬を用意します。」
エレは馬に飛び乗り、紙片を胸元に押し込む。
「西側の小道を抜けるわ。」
馬蹄の音が闇を打つ中、彼女は唇を固く噛む。
──どんな危険でも構わない。
間に合うなら、必ず辿り着く。




