(171) 無償の愛
「……違うの。」
彼女は彼の言葉をさえぎった。口調ははっきりしていて、ためらいはなかった。
「この力がなかったら、あの時アレックを助けられなかった。まして……今もこうしてあなたのそばに立ってなんていられなかった。」
エレは真っ直ぐに彼を見つめた。その表情は冷静で、それでいて決して冷たくはなかった。揺るぎない確信がそこにあった。
「この力を持ってしまったことを間違いだなんて、一度も思ったことはない。本当に責めるべきなのは、この力を狙って、利用しようとした人たちのほうだよ。」
彼女は手を伸ばし、再び彼の頬に触れて視線を合わせさせた。
「あなたの神賜の力と同じだよ。」
声は優しかった。でも拒絶を許さない、そんな優しさだった。
「それを持っていること自体が、間違いなんかじゃない。」
そして、かすかに笑みを浮かべて、そっと言葉を足した。
「私も同じ……知ってた? 一度だって後悔したことないんだよ。」
帳の中が一瞬、静まり返った。
サイラスは彼女を見つめたまま、胸の奥で言葉にできない想いが渦巻いた。
──間違いじゃない。
彼女は本当にそう思っているのか。責任からでも、彼への依存でもなく──全てを見た上で、自分の意志でここにいる。
喉が動き、かすれた声が漏れた。
「……違うんだ。」
「お前は俺じゃない。」
「俺がやったことは全部、俺自身が選んだことだ。後悔なんかしてない……でもお前は──」
言い切る前に、エレが彼を抱きしめた。
その抱擁は柔らかく、それでいて揺るぎなかった。指先が彼の冷たい首筋を撫でる。まるで慰めるように、あるいは決意を示すように。
「そうだね、私はあなたじゃない。」
彼女は低く囁いた。その吐息が彼の耳をかすめた。
「本当に苦しんでたのは、あなただよ。」
「ずっと知ってた。」
「ずっと……ただ勝手にあなたのそばに立って、あなたの全てを受け取ってただけ。」
「あなたが守ってくれて、信じてくれて……この治癒の力だって、あなたがくれたものなのに。」
「ずるいよね?」
彼女は小さく笑った。その声には自嘲が混じっていた。
「いつも貪婪に受け取ってばかりで、何も返せなかった。」
抱擁を解いたが、離れることはなく、そっと彼の顔を上げさせた。
「でも、やっと分かったの。」
「あなたがくれたのは、力だけじゃない──『無償の愛』だよ。」
彼女の指先が彼の左目をなぞった。その神賜を示す印を撫でるように。
「その愛は重すぎるって、あなたは言ったけど。」
「でも私は──」
彼女の目は揺らがず、光を宿していた。
「受け取りたいんだ。」
「どれだけ重くても、この先に痛みがあっても……私はそれを受け取りたい。」
彼女は深く息を吸った。まるでこれまでの迷いや疑念を全て吐き出すように。
「だってそれは、あなたがくれたものだから。」
「私が欲しかったのは……最初から、あなた自身だよ。」
その言葉はあまりに真っ直ぐで、あまりに揺るぎなかった。
まるで暗闇の底にまで届く光のように、サイラスの心の最も深い場所を照らした。
彼は呆然と彼女を見つめた。しばらく言葉が出なかった。
普段なら決して外に出さない感情が、決壊したように胸を満たす。
彼はゆっくりと手を上げ、彼女の手の上に重ねた。
掌から伝わる体温が、これが幻じゃないと教えてくれる。
「……エレ。」
かすれる声で名前を呼ぶのがやっとだった。それ以上の言葉は出てこなかった。
だから代わりに、そっと頭を下げ、彼女の額に口づけた。
何の前触れもためらいもないキスだった。
それまでずっと抑えてきた想いを、すべてその動作に込めるように、静かに彼女の額に触れた。
額を寄せたまま、かすれる声で言った。
「……できるなら、お前にはこんな力なんか持ってほしくなかった。」
「ずっと普通の……幸せな……」
エレは言葉を返さなかった。でも離れもしなかった。
ただ静かに彼の指を握り返した。そのぬくもりがあまりに真実味を帯びていて、まるでこう告げているようだった。
「それでも、私はいいの。」
その返事を感じて、彼は思わずもう一度抱きしめたくなった。もう一度、全部をこの腕に閉じ込めたくなった。
でも最後に、ただ低く問うた。
「……一度くらい、俺がわがままを言ってもいいか?」
「お前がまだ俺を見てくれるなら……これからも、守らせてほしい。」
エレは答えず、ただじっと彼を見つめた。
その目は強くて、そして優しかった。
そして、そっと手を伸ばし、彼の首に手を回すと、近づいて──
彼がまだ戸惑う間に、その唇を奪った。
それは衝動でも感謝でもなく、ただひとつの宣言だった。
──今度は、私がこの気持ちを守る番だよ。




