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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
隠された探り合い

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(17) 洗練された試み

 

 どれほど警戒を続けていようとも、疲労は確実に積み重なるものだ。

 連日の奔走で心身ともに疲れ果て、気を緩める暇もなかったエレにとって、それはなおさらだった。


 カインはそんな彼女の様子を察したのか、落ち着いた雰囲気の茶屋へと足を運んだ。


「せっかくだし、ブレスト名物の菓子くらい味わってみたらどうだ?」

 椅子に腰を下ろし、適当に菓子を注文しながら、カインはどこか挑発的な笑みを浮かべる。


「それとも……甘いものは苦手か?」


 エレはわずかに眉を上げた。

 彼の意図は分かっている。

 こうして警戒を解かせ、探りを入れるつもりなのだろう。


 ——だが、それでも。


 甘いものを口にしていない時間が、あまりにも長すぎた。


 エレはそっと視線を上げ、一瞬だけ彼と目を合わせる。

 そして、淡く微笑んだ。


「では、お言葉に甘えさせていただきます。」


 彼が彼女を試すのなら、彼女もまた、彼を観察する機会を逃すつもりはない。


 運ばれてきたのは、美しく仕上げられたケーキ。

 ふわりとした質感に、ほのかに漂う甘い香り。

 エレは何気ない仕草で銀のフォークを取り、小さく一口分を切り分けると、ゆっくりと口へ運んだ。


 舌の上で優しく溶ける甘さ。


 ——久しく、こんな味を口にしていなかった。


 カインは彼女の様子を静かに見守りながら、ぽつりと尋ねた。

「……どうだ? 口に合わなかったか?」


 エレは彼を見返し、微笑みながら小さく首を振る。

「いいえ。ただ、こんな場所で、これほど洗練された菓子に出会えるとは思いませんでした。」



「ブレストは帝都ほどの華やかさはない。……それが、ここに長く留まるつもりがない理由か?」


 カインの声はあくまで穏やかで、いつも通りの気の抜けた調子だった。

 だが、その言葉には、どこかさりげない探りが含まれていた。


 エレは微笑みを浮かべながら、銀のフォークを取り、小さくケーキを切り分ける。

 そして、一口含んだ後、さらりと答えた。


「ブレストは、確かに特別な場所ですね……」


 わずかに間を置き、ふと茶目っ気を含んだ口調で付け加える。


「例えば、到着して間もない私が、人攫いに売られかけるなんて出来事が起こるくらいには。」


 彼女は冗談めかして言ったつもりだった。

 本来なら、カインは軽い調子でそれを受け流すか、皮肉交じりに返してくるだろうと思っていた。


 ——だが、今回は違った。


 カインは即座に返事をせず、ふっと彼女を見つめる。

 笑みの奥にあったはずの気軽さが、ほんのわずかに和らいだような気がした。


「……それは、俺の落ち度だったな。」


 低く、静かな声だった。


 エレは思わずまばたきをする。

 まさか、彼がそんな風に返してくるとは思っていなかった。


 だが、その真剣さはほんの一瞬。


 カインはすぐに気だるげな笑みを取り戻し、手元のティーカップを軽く傾ける。


「まあ、それはそれとして——このケーキはお詫びってことで、しっかり味わってくれ。」


 彼は茶を一口含み、目を細める。

 淡い茶の香りが、ゆるやかに広がっていく。

 指先がティーカップの縁をなぞる仕草は、どこか無造作で、それでいて計算された動きのようにも見えた。


 まるで、味わっているのは紅茶の風味だけではなく、目の前の対話そのものを楽しんでいるかのように——。


「そういえば——」

 カインはふと口を開いた。まるで他愛のない話題を振るような、気の抜けた調子だった。


「聞いたんだが、お前、エスティリアの出身らしいな?」


 フォークを持つエレの指先が、一瞬だけ止まる。

 銀のフォークが陶器の皿に触れ、微かな音を立てた。


 だが、そのわずかな停滞は長くは続かない。


 エレはすぐに何事もなかったかのように顔を上げ、カインを見つめた。

 銀白の髪が僅かに揺れ、光の加減で淡い青紫の色彩を帯びる。


「……どうして?」

 彼女は何気ない調子で問い返す。

 その声音は淡々としていたが、その奥には、ごく僅かに探るような色が滲んでいた。


「カイン様は、エスティリアにご興味でも?」


 カインはすぐには答えない。


 気怠げな仕草でティーカップをテーブルに戻し、指先で軽く縁を叩く。

 一定のリズムを刻むその動作は、まるで考えを巡らせるための癖のようだった。


「いや、ただの好奇心さ。」

 彼はぼんやりとした口調で答える。


「最近の噂話は面白いからな。」


 薄く笑みを浮かべたまま、カインはエレを見つめる。


「エスティリアが政変に見舞われて、帝国に逃げてきた者は少なくない。……お前はどうしてブレストを選んだ?」


 エレは静かにティーカップを手に取り、ゆっくりと口元へ運ぶ。

 温かな液体が喉を滑り落ちる感触とともに、返答を考える時間を稼ぐ。


 指先が陶器の縁をなぞる。

 その所作は優雅で、まるで何気ない雑談を楽しんでいるかのようだった。


 だが、彼女は知っている。


 カインの問いは、単なる世間話ではない。

 巧妙に誘導された言葉——彼が聞きたいのは「答え」ではなく、「反応」だ。


「……エスティリア。」


 エレは、その名を一度、静かに口にする。

 まるでその響きを噛み締めるように。


 そして、小さく微笑んだ。


「ええ、私は確かにエスティリアの出身です。でも、ただの旅の踊り子ですから。同じ場所に長く留まることはありません。」


 言葉の端々には、どこか軽やかさが漂っていた。

 だが、その次の言葉には、ほんの僅かに、別の感情が混ざる。


「……でも、故郷が争乱に巻き込まれたのは、やはり心が痛みますね。」


 エレは、わずかに目を伏せた。


「でも、人は前に進まなくてはなりません。そうでしょう?」


 悲しみを過度に強調するわけでもなく、かといって無関心にもなりすぎない。

 ただの一国の民として、当然抱くであろう程度の感情。


 それが、彼女が選んだ「正解」だった。



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