(169) 審判と信念
二日後
本営の主幕は重苦しい空気に包まれていた。
火盆の炭が小さく弾ける音だけが、押し殺された緊張を際立たせる。
サイラスは卓の前に立ち、左右にヴェロニカとレオン伯爵が控える。
幕外から吹き込む風音が微かに聞こえる中、帳の入口が勢いよく開かれた。
冷たい風が流れ込み、サニールが無造作に踏み入る。その後ろに、一人の女が足を引きずるように現れた。
エレだった。
足取りは不安定で、顔色は蒼白。衣服には泥と血がこびりつき、道中でまともな扱いを受けなかったのが一目で分かった。
主幕の光景を目にした途端、その場に崩れるように膝をつき、声ひとつ出さずに座り込む。
「全員揃ったな。」
レオン伯爵が口を開く。興味深げな声音を隠そうともせず、「殿下、始めますか?」
サイラスはすぐには答えなかった。
ただ、黙って目を落とした。
その視線は、かつては清らかで凛としていたはずの彼女が、今はぼろ布のように疲弊し汚れ切っている姿を映していた。
その眼差しには、責める色はなく。
ただ、言いようのない静かな哀しみが滲んでいた。
サニールが一歩前に出る。声は冷たく鋭い。
「エレ。侍女リタを使って機密を漏らし、その脱走を幇助した挙句、自白を拒み続け、軍を欺き“治癒能力者”を騙った偽術者。それがこいつの正体だろう? 殿下、この状況でまだ言い訳する気ですか?」
エレは何も答えなかった。
頭を深く垂れたまま、まるで音も届かないかのように、沈黙の殻に閉じこもっていた。
サイラスの視線が変わらないのを感じて、余計に顔を上げられなかった。
失望を、怖れていた。
──そのとき、鋭い裂けるような音が帳内に響いた。
「殿下……?」
ヴェロニカとレオン、サニールまでもが一斉に目を見開く。
サイラスは無言で左腕の袖をまくり上げ、刃を振るった。
短剣の冷たい煌めきが肌を裂き、鮮血がしたたる。
「殿下!」
ヴェロニカの声が鋭く割れる。
「気でも狂ったのか?」
サニールも低く呻いた。
血が落ちる音が、異様に大きく響く。
その滴りがエレの胸を打ち抜くようだった。
「……な、んで……何やってるの……!」
泣き声混じりに絞り出した言葉。
手足が震え、見開いた瞳に血の赤が刺さる。
サイラスは淡々と告げた。
「使え。お前の力を。」
「できない……!」
首を振る。
声が掠れ、必死に吐き出す。
「もう……本当に、ないの……私……」
サイラスは無表情のまま、ゆっくりと刃を胸元に向けた。
「なら、今度はこっちを切る。」
「やめて!!」
絶叫に近い声が幕を震わせた。
エレは地面を蹴るようにして彼に飛びつき、刃を止め、血に濡れた彼の腕を抱きしめた。
「お願い、お願いだから……そんなことしないで……!」
サイラスは彼女を突き放さなかった。
震える彼女の手が、彼の腕を覆う。
涙と嗚咽が交じり、必死に止血しようとする。
──そして。
光がともった。
柔らかな輝きが、彼女の手のひらから滲む。
空気が張り詰め、次の瞬間に弾けたように揺れる。
流れる血が止まり、割けた皮膚が縫い合わされていく。
再び、血管が閉じてゆく。
エレの目が見開かれた。
自分の手の中で、彼の傷が治っていく。
「……どうして……?」
泣きそうな声で呟く。
信じられないものを抱くように、自分の手を見つめた。
帳内はしんと静まり返った。
レオンは眉を上げ、まるで面白い実験を観察するように目を細めた。
ヴェロニカは眉間に深い皺を寄せ、じっと二人を注視していた。
サニールは目を細め、視線が揺れたまま沈黙した。
「そんな馬鹿な……」
「おい、サニール。」
レオンが口端を歪めて振り返る。
「『偽術者』って言ったのはお前だろう?」
サニールは返す言葉がなく、唇を噛んだ。
サイラスは視線を落とし、エレを見つめた。
その声は低く、しかし確信に満ちていた。
「この話は……俺が直接、彼女に聞く。」
言葉が落ちると同時に、帳内の空気が張り詰めたように止まった。
「サニール。」
声は穏やかだが、決して拒めない調子だった。
「長旅ご苦労だったな。下がって休め。」
サニールは顔をしかめ、肩をすくめた。
「……好きにしろ、殿下。」
レオンもまた、苦笑を滲ませつつ肩を叩き、幕を出た。
ヴェロニカは一歩残ってエレを見つめた。
「……水を持ってこさせる。」
それだけ言い残して、兵に指示を飛ばすと幕を出た。
しばしの後、幕内は二人だけになった。
緊張の糸が切れたように、エレは力が抜けてその場に崩れかけた。
サイラスがすぐに手を伸ばし、支える。
そのまま椅子へ座らせ、自分も腰を下ろした。
エレはまだ呆然としたまま、彼の左腕を握っていた。
……その傷痕を、指先でそっとなぞる。
深い、浅い、まだ新しいもの、すでに薄くなったもの。
まるで自分で自分を裂いて、何かを留めようとしたような、痛々しい軌跡だった。
「……なんで、こんなに。」
小さな声で問うた。
サイラスは視線を落とし、そしてわずかに笑った。
「やっと、俺をちゃんと見たな。」
その時、幕が開き、侍従が水盆と清潔な布を運び入れると、すぐに静かに下がった。
サイラスは無言で布を水に浸し、軽く絞ると、ゆっくりとエレの顔を拭った。
泥、血、汗。
一つひとつを慎重に、まるで壊れ物を扱うように。
そして最後に口許で手を止め、目を伏せる。
エレは見上げた。
声が震えた。
「……どうして、そこまで。」
「こんな私のために……」
サイラスは少しの間だけ目を閉じ、そしてそっと額を彼女の額に寄せた。
「……お前は何も知らないくせに、全部抱え込もうとする。」
低く、苦しげな声が漏れる。
「力がなくなったら終わりだと思ってるだろ。でも、それは……」
言葉を切った。
そして、小さく苦笑した。
「……いい。もうそんなこと言うな。」
近すぎる距離。
息が触れるほどの間合いで、彼は言った。
「それからな。」
唇の端が少し上がる。
「また勝手に一人で全部背負ったら……俺がこの場で縛るぞ。」
エレは思わず目を見開き、赤くなる。
「……乱暴なこと言わないで!」
「うん、俺はそういう人間だ。」
開き直るような声。
エレは俯いて耳まで赤くなる。
そんな彼女を見て、サイラスは目を細めて囁いた。
「でもな、エレ……」
わざと声を低く落とす。
「さっきあんな必死に飛びついてきたってことは、やっぱり俺のこと……大事に思ってるんだろ?」
「ち、違う!」
「違わないな。」
「もう、ほんとやめて……!」
「じゃあ、確認のためにまた手首切ろうか。」
「やめろーー!!」
声を上げる彼女を見て、サイラスはとうとう吹き出しそうになりながらも、ふっと腕を回して抱きしめた。
「……怖がらせて、悪かった。」
その声はとても静かで、優しかった。
エレは泣きそうに顔をしかめて、でも力なくもたれる。
──狡い人だ、と思った。
でも、そんな彼に縋るように、そっと彼の胸元を握った。




