(168) 風雪に届く
夜風が軍旗をはためかせる。
サイラスは馬を駆り、前線の本営指揮幕へと飛び込む。
マントを脱ぐ間もなく足を止めた。
幕内の灯火が揺れていた。
主座の脇にレオン伯爵が座り、手元の杯を軽く揺らしながら、どこか含みのある視線を送ってくる。
サイラスは数秒その目を受け止め、そして視線を横に移した。
ヴェロニカが直立していた。
表情はいつも通り冷静だが、その鋭さにわずかに翳りがあった。
「……何があった。」
ヴェロニカが先に口を開いた。
「ラセレン要塞前方の野営地で、内通者が捕らえられた。」
淡々とした口調に、抑制された苛立ちが滲んでいた。
サイラスの眉が寄る。
「……誰だ。」
わずかな沈黙の後、ヴェロニカは視線を落とし、決意を固めるようにゆっくり告げた。
「……エレだ。」
「……何?」
一瞬、サイラスはまるで聞き間違えたかのように声を落とした。
琥珀色の瞳に、はっきりと困惑の色が宿った。
ヴェロニカは視線を逸らさず、語調を抑えた。
「もとは侍女が疑われていた。しかしサニールの報告で、エレがそれを知りつつ逃したと判断された。共犯と見做されたんだ。……それに、もう治癒の力は使えない。詐術だった可能性が高いと。」
空気が重く沈んだ。
レオン伯爵も杯を置き、真顔で黙り込む。
だが、サイラスは即座には反論しなかった。
ゆっくりと息を吐き、ただ一言だけを問う。
「……ここからラセレン前線まで、どれくらいだ。」
レオンとヴェロニカが視線を交わした。
レオンはわずかに皮肉げに片眉を上げたが、答えたのはヴェロニカだった。
「一日半。天候が良ければ、一日で届く。」
そして、表情を引き締めて告げた。
「でも、行くべきじゃない。そんなことで戦線を崩す気?」
サイラスは軍手を外し、卓上に置くと静かに言った。
「……サニールに伝えろ。エレをここへ送れ。」
その声は低く平坦だが、否定を許さない響きがあった。
レオンが呆れたように嘲った。
「前線に“内通の嫌疑者”を連れて来るのか? ここはお前の私領じゃないぞ、殿下。」
ヴェロニカも眉をひそめた。
「もう力も無いのよ。ただの負担になる。連れて来ても役には立たない。」
しかしサイラスは視線を上げ、きっぱりと言った。
「来れば分かる。」
その言葉に二人は息を呑む。
「俺は、彼女がそんな人間だとは信じない。」
目が鋭くなる。
「“力が消えた”って話も、そのまま信じる気はない。ここで俺が、直接確かめる。」
ヴェロニカは一瞬目を見開いた。
その声は、疑いではなかった。
──確信めいた何かを宿していた。
サイラスはゆっくりと背を向け、地図に目を落とした。
「……彼女の力は、俺がいるから起こるものだ。」
◆ ◆ ◆
灯火は陰鬱にゆれ、帳の中の空気は淀んでいた。
エレは隅に座り込んだまま、両手を固く組み合わせ、指先が白くなるほど力を込めていた。
いつ眠ったか思い出せない。
ただ目を閉じれば、問いが渦巻いた。
──どうして止めなかった。
──何もできなかった。
あの負傷兵の胸に手を当て、祈るように力を呼んでも、冷たさしか返ってこなかった感触を思い出す。
自分が信じた「救える」という思いは、所詮は幻想だったのか。
外から荒々しい足音が近づき、緊張が破られた。
「ったく、くだらない……」
苛立ちを隠さない声が、幕を乱暴に開いた。
サニールだった。
手に軍令書を握りしめていた。
「お前の“ご自慢の王子様”が命令してきたよ。今すぐお前を前線に連れて来い、だとさ。」
エレは顔を上げた。
瞳に驚きと戸惑いをにじませた。
「……え?」
声が擦れ、まるで夢の中で誰かに呼ばれたようだった。
ずっと前線には行くなと言われていたのに。
どうして今になって……
自分を責めるため?
「……私なんかを、呼ぶわけない。」
乾いた声が震えた。
サニールは鼻で笑い、手を振った。
「処刑台にでも連れて行かれる顔するなよ。俺もわけわかんねぇよ。『話があるから連れてこい』だと。」
エレは俯いたまま立ち上がった。
「……行くべきじゃない。私が行けば、もっと迷惑かけるだけ。」
「俺に言うな。本人に言え。」
サニールは苛立ちながらも手を差し出し、無理やり立たせた。
「お前ら、ほんと面倒くさい。片や軍令無視の不羈者、片や勝手に自己嫌悪で泣くお姫様。……俺がどれだけフォローしたと思ってんだ。」
エレは唇を噛み、黙ったままだった。
でも、どこかで確信していた。
──彼は、本当に私を呼んだ。
◆ ◆ ◆
外は風雪が途切れ、冷たい空気が張り詰めていた。
ヴェロニカは沈黙を破った。
「……本気で呼ぶつもり?」
声は低い。だが棘のように鋭い問いがそこにあった。
「分かってるでしょう。彼女を巻き込むのは危険だけじゃない。士気も軍紀も崩す。もう十分、あなたは戦争の軸をずらしすぎた。」
サイラスは地図に目を落としたまま、静かに息を吐いた。
「……この戦いは、彼女のために始めたものだ。」
その声に、ヴェロニカは言葉を失った。
サイラスの目は冷たく、決意だけが光っていた。
「護送路を確保しろ。途中での襲撃は絶対に許さない。……必要なら、俺が迎えに行く。」
ヴェロニカは長い沈黙の末、深くため息をついた。
「……本当に行くのね。」
サイラスは視線を上げた。
琥珀の瞳は、落日のように深く揺らぎながら、決して退かなかった。
「……行く。」
ヴェロニカは真っ直ぐに見返した。
「……願わくば、全てが報われますように。」
サイラスはわずかに頷き、短く返した。
「ありがとう。」




