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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
寒鉄に響くの刻

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168/194

(168) 風雪に届く

 夜風が軍旗をはためかせる。

 サイラスは馬を駆り、前線の本営指揮幕へと飛び込む。

 マントを脱ぐ間もなく足を止めた。

 

 幕内の灯火が揺れていた。

 主座の脇にレオン伯爵が座り、手元の杯を軽く揺らしながら、どこか含みのある視線を送ってくる。

 

 サイラスは数秒その目を受け止め、そして視線を横に移した。

 ヴェロニカが直立していた。

 表情はいつも通り冷静だが、その鋭さにわずかに翳りがあった。

 

 「……何があった。」

 

 ヴェロニカが先に口を開いた。

 「ラセレン要塞前方の野営地で、内通者が捕らえられた。」

 

 淡々とした口調に、抑制された苛立ちが滲んでいた。

 

 サイラスの眉が寄る。

 「……誰だ。」

 

 わずかな沈黙の後、ヴェロニカは視線を落とし、決意を固めるようにゆっくり告げた。

 「……エレだ。」

 

 「……何?」

 

 一瞬、サイラスはまるで聞き間違えたかのように声を落とした。

 琥珀色の瞳に、はっきりと困惑の色が宿った。

 

 ヴェロニカは視線を逸らさず、語調を抑えた。

 「もとは侍女が疑われていた。しかしサニールの報告で、エレがそれを知りつつ逃したと判断された。共犯と見做されたんだ。……それに、もう治癒の力は使えない。詐術だった可能性が高いと。」

 

 空気が重く沈んだ。

 レオン伯爵も杯を置き、真顔で黙り込む。

 

 だが、サイラスは即座には反論しなかった。

 ゆっくりと息を吐き、ただ一言だけを問う。

 

 「……ここからラセレン前線まで、どれくらいだ。」

 

 レオンとヴェロニカが視線を交わした。

 レオンはわずかに皮肉げに片眉を上げたが、答えたのはヴェロニカだった。

 「一日半。天候が良ければ、一日で届く。」

 

 そして、表情を引き締めて告げた。

 「でも、行くべきじゃない。そんなことで戦線を崩す気?」

 

 サイラスは軍手を外し、卓上に置くと静かに言った。

 「……サニールに伝えろ。エレをここへ送れ。」

 

 その声は低く平坦だが、否定を許さない響きがあった。

 

 レオンが呆れたように嘲った。

 「前線に“内通の嫌疑者”を連れて来るのか? ここはお前の私領じゃないぞ、殿下。」

 

 ヴェロニカも眉をひそめた。

 「もう力も無いのよ。ただの負担になる。連れて来ても役には立たない。」

 

 しかしサイラスは視線を上げ、きっぱりと言った。

 「来れば分かる。」

 

 その言葉に二人は息を呑む。

 

 「俺は、彼女がそんな人間だとは信じない。」

 目が鋭くなる。

 「“力が消えた”って話も、そのまま信じる気はない。ここで俺が、直接確かめる。」

 

 ヴェロニカは一瞬目を見開いた。

 その声は、疑いではなかった。

 ──確信めいた何かを宿していた。

 

 サイラスはゆっくりと背を向け、地図に目を落とした。

 

 「……彼女の力は、俺がいるから起こるものだ。」


◆ ◆ ◆


 灯火は陰鬱にゆれ、帳の中の空気は淀んでいた。

 エレは隅に座り込んだまま、両手を固く組み合わせ、指先が白くなるほど力を込めていた。

 

 いつ眠ったか思い出せない。

 ただ目を閉じれば、問いが渦巻いた。

 

 ──どうして止めなかった。

 ──何もできなかった。

 

 あの負傷兵の胸に手を当て、祈るように力を呼んでも、冷たさしか返ってこなかった感触を思い出す。

 

 自分が信じた「救える」という思いは、所詮は幻想だったのか。

 

 外から荒々しい足音が近づき、緊張が破られた。

 

 「ったく、くだらない……」

 

 苛立ちを隠さない声が、幕を乱暴に開いた。

 

 サニールだった。

 手に軍令書を握りしめていた。

 

 「お前の“ご自慢の王子様”が命令してきたよ。今すぐお前を前線に連れて来い、だとさ。」

 

 エレは顔を上げた。

 瞳に驚きと戸惑いをにじませた。

 

 「……え?」

 

 声が擦れ、まるで夢の中で誰かに呼ばれたようだった。

 

 ずっと前線には行くなと言われていたのに。

 どうして今になって……

 

 自分を責めるため?

 

 「……私なんかを、呼ぶわけない。」

 乾いた声が震えた。

 

 サニールは鼻で笑い、手を振った。

 「処刑台にでも連れて行かれる顔するなよ。俺もわけわかんねぇよ。『話があるから連れてこい』だと。」

 

 エレは俯いたまま立ち上がった。

 「……行くべきじゃない。私が行けば、もっと迷惑かけるだけ。」

 

 「俺に言うな。本人に言え。」

 サニールは苛立ちながらも手を差し出し、無理やり立たせた。

 

 「お前ら、ほんと面倒くさい。片や軍令無視の不羈者、片や勝手に自己嫌悪で泣くお姫様。……俺がどれだけフォローしたと思ってんだ。」

 

 エレは唇を噛み、黙ったままだった。

 

 でも、どこかで確信していた。

 

 ──彼は、本当に私を呼んだ。


◆ ◆ ◆


 外は風雪が途切れ、冷たい空気が張り詰めていた。

 

 ヴェロニカは沈黙を破った。

 

 「……本気で呼ぶつもり?」

 声は低い。だが棘のように鋭い問いがそこにあった。

 

 「分かってるでしょう。彼女を巻き込むのは危険だけじゃない。士気も軍紀も崩す。もう十分、あなたは戦争の軸をずらしすぎた。」

 

 サイラスは地図に目を落としたまま、静かに息を吐いた。

 「……この戦いは、彼女のために始めたものだ。」

 

 その声に、ヴェロニカは言葉を失った。

 サイラスの目は冷たく、決意だけが光っていた。

 「護送路を確保しろ。途中での襲撃は絶対に許さない。……必要なら、俺が迎えに行く。」

 

 ヴェロニカは長い沈黙の末、深くため息をついた。

 「……本当に行くのね。」

 

 サイラスは視線を上げた。

 琥珀の瞳は、落日のように深く揺らぎながら、決して退かなかった。

 

 「……行く。」

 

 ヴェロニカは真っ直ぐに見返した。  

 「……願わくば、全てが報われますように。」

 

 サイラスはわずかに頷き、短く返した。  

 「ありがとう。」


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