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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
寒鉄に響くの刻

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(167) 消える聖女の光

 夜は墨のように濃く、帳の中には一つの油灯がぼんやりと揺れていた。

 エレは即席の机の縁を指先でぎゅっと握りしめたまま座り込んでいる。

 

 向かいでリタは黙々と薬草を選り分けていた。手つきはいつも通り繊細なのに、どこか決定的に「違う」。

 

 ──夜中に一人で帳を出ていくのを、何度見たか。

 その後で薬包の位置が微妙に動いていたのも、一度や二度ではない。

 

 灯りの下で怯えた目をしながら、油紙に何かを走り書きし、それを薬包に隠すように差し込む──そんな姿も見た。

 

 本当はずっと気づいていた。

 でも「信じたいから」と言い訳を重ね、見て見ぬ振りをしてきた。

 大切な人だから、理由があるはずだと、そう思いたかった。

 

 けれど、もう限界だった。

 

 「……リタ。」

 声は柔らかく、まるで世間話でもするように呼びかけた。

 

 「さっき薬棚を見たんだ。……いくつか、数が合わなかった。記録も抜けてた。」

 

 リタの手がわずかに止まった。

 すぐに顔を上げて微笑む。

 

 「……今朝、予備包を作ったとき、書き忘れたのかも。ごめんね。あとで記録つけるよ。」

 

 声は落ち着いていたが、その平静は抑えつけたものだとエレにはわかった。

 

 「うん……でも、その薬って常用じゃないよね。」

 ゆっくり、声を落とす。

 「特別な命令もなかったはずだし。……なのに最近、夜に一人でよく外に出るよね。手には必ず薬包を持って。」

 

 リタの表情が固まる。

 

 「……見てたんだよ。」

 エレは感情を抑え、静かに告げる。

 「この間は、灯りの下で何かを書いてた。油紙に包んで、それを薬包に入れてた。」

 

 リタの指先が震えた。

 顔を伏せ、声を絞り出す。

 「……それは、私のメモ……」

 

 「それ、軍報と同じ紙だったよね。」

 優しく、でも逃さない声。

 

 空気が重く沈む。

 

 リタは睫毛を伏せ、視線を逸らす。

 エレはその様子を見て、声を落とした。

 

 「……リタ。誰かに脅されてるの?」

 

 返事はなかった。

 

 「お願い。言って。私たちで一緒に考えよう。」

 

 リタは小さく首を振った。声が震えていた。

 「無理……言えない……」

 

 「言えないの? それともやめられないの?」

 エレの声が低く鋭くなる。

 「分かってる? それはただ薬を盗むんじゃない。……情報を漏らしてるの。」

 

 リタの肩が小刻みに揺れた。

 

 「舞踏会のときの刺客も、あんたが手引きしたの?」

 声は冷えたまま問い詰める。

 「知ってたんだよね。何が起こるか。」

 

 「やめて……」

 リタがか細い声で呟いた。

 

 「知ってたのに止めなかった。あの時、サイラスが反応遅れてたら……」

 

 「やめて!!」

 

 リタが泣き声をあげた。

 目から大粒の涙がこぼれ、頬を濡らす。

 「ごめんなさい……ごめんなさい……!」

 

 エレは声を詰まらせた。

 「……どうして?」

 泣きそうな声が震えた。

 「どうして黙ってたの……どうして言ってくれなかったの……!」

 

 リタは首を振り続けた。

 「……わからないよ、エレには……これは……私の弟が、唯一の……私にはこれしか……ごめんなさい……!」

 

 そのまま、泣きながら後退りし、ついに背を向けて帳の外へ飛び出していった。

 

 エレは呆然とその背中を見送った。

 力なく手を下げ、灯りが揺れる静かな帳の中に一人残された。

 

 ──結局、選んでもらえなかった。

 

 信じようとしたのに。最後まで期待してしまったのに。

 

 胸が押しつぶされそうで、深呼吸しても息が詰まったままだった。

 

 戦士じゃない。

 無理に捕まえられる力もない。

 せめて信じようとしたのに、それすら救いにならなかった。

 

 散らばった薬草と砕けた小瓶を拾い集めながら、指先がかすかに震えた。

 その夜、ほとんど眠れずに夜明けまで座っていた。

 外から聞こえる兵士の交代の声や、武器を研ぐ音が、冷たく現実を告げ続けていた。


 曇天が低く垂れこめた朝。

 帳の外では足音が近づき、布が荒々しくめくられた。

 

 入ってきたのはサニール。

 いつものように端正な軍装を身にまとい、目は冷ややかだった。

 

 帳の中をざっと見回し、憔悴しきったエレに視線を定めた。

 

 「……この有様だ。間者を逃がすために随分苦労してくれたじゃないか?」

 

 エレは座ったまま、昨夜の外套を肩にかけ、目の下に青い影を落としていた。それでも背筋を伸ばしたまま答えた。

 

 「私は……逃がしたんじゃない。ただ……止められなかった。」

 

 「止められなかった?」

 サニールは冷笑した。

 「捕まえられなかっただけか? 説得して軍に引き渡すこともできただろうに。」

 

 彼はゆっくり歩み寄り、両手を背に回した。

 

 「いやはや。王子殿下溺愛の女が間者とはな。最初から妙な連中だったよな、お前ら。帝都から特例で同行、軍規の外。実にお手本みたいな抜け穴だ。」

 

 エレは唇を噛み締めた。

 

 「そんな目で見るな。」

 サニールは鼻で笑った。

 「突然王子だと名乗って戦場を仕切り、勝手に部隊を編成し、その女がスパイでした、か。……いい見世物だな。」

 

 そのまま声を張り上げた。

 「──おい、拘束しろ。」

 

 二人の兵士が帳に入ってきて、エレを両脇から固めた。

 

 エレは立ち上がり、抵抗しなかった。ただ、サニールを真っ直ぐに見据えた。

 

 「……最初から疑ってたんだね。」

 

 サニールは肩をすくめた。

 「戦場では勘が命だ。俺は『綻び』に敏いんだよ。」

 

 エレの手が縛られたまま、外へ引かれていくと、そこに突然声が上がった。

 

 「どけ! 重傷だ!」

 

 担架を担いだ兵が駆け込んできた。

 血に染まった胸甲から血が噴き出し、癒傷者が顔色を変えた。

 「大動脈を切ってる、癒傷に着く前に死ぬぞ!」

 

 エレの目が見開かれ、無意識に前に出た。

 「……私にやらせて!」

 

 「動くな!」

 押さえつける兵の手が強くなる。

 

 その時、サニールが手を上げた。

 

 「──いいだろう。」

 

 周囲が一瞬どよめく。

 

 「最後の見世物だ。もしかしたら死人を甦らせる奇跡でも見せてくれるかもしれないしな。」

 

 兵がしぶしぶ手を放すと、エレはすぐさま膝をつき、手を血まみれの胸に当てた。

 触れた感触はまだ生温かかった。

 

 息を詰め、目を閉じ、集中する。

 

 ……けれど。

 

 何も起こらなかった。

 

 何度呼びかけても、力は湧かない。

 光も、命の手応えもない。

 

 エレの肩がわずかに震えた。

 「……どうして……」

 

 周囲から小声が漏れた。

 

 サニールはゆっくり歩み寄り、真上から彼女を見下ろした。

 

 「これが『奇跡』か? 灯もともらない。前はあれだけ騒がれてたのにな。」

 

 低く笑う声が刺さる。

 

 「結局、王子様の道化かよ。身内贔屓で戦場に持ち込んだお飾りが、今や軍心を乱す厄介者だ。」

 

 周囲の兵士たちは黙り込み、目をそらす者もいた。

 

 エレは唇を噛み、必死に涙をこらえた。

 反論しようとしても、声にならない。

 

 ──自分は、何も守れなかった。

 ──何も救えなかった。


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