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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
寒鉄に響くの刻

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164/194

(164) 信頼の絆

 夜はまだ完全に明け切らず、霧がラセレン要塞の外に広がる森と谷を覆っていた。

 湿った土の匂いと遠くで揺れる焚火の光が混じり合い、ひんやりとした風が頬を撫でる。

 

 サイラスは馬を進め、小隊の先頭に出た。マントを翻し、赤い髪が薄明かりに冷たく光る。

 その鋭い視線が全員を見渡し、低く、しかし明瞭に響く声を落とした。


「……準備はいいか。」

 

 「いつでも行けます、殿下。」

 ノイッシュが隊列の左に立ち、片手で火縄銃を支え、もう片方で素早く火打石を調整していた。

 彼率いる五人は全員が改良型の火縄銃を携え、腰には予備の火打石と火薬袋をぶら下げている。

 

 反対側では、アレックが黙々と仲間の装備を確認していた。革帯を締め直し、火薬の湿り気を確かめる手つきは無駄がない。

 「湿気が強い。火薬を湿らせるな。」

 声は普段通り淡々としていたが、目には影のような鋭い警戒心が浮かんでいた。

 

 サイラスは静かに頷く。この襲撃に失敗は許されない。

 正面ではレオン伯爵の軍勢が敵主力を引きつける。その間に自分たちは北側の森を抜け、補給線を断ち、混乱を引き起こす――それが役目だった。

 

 「二隊で交互に援護、勝手な行動は厳禁だ。」

 命令する声は静かだが、確かな威圧感を含んでいた。

 「撃つのは合図を待て。」

 

 その時、斥候が低い声で告げた。

 「動きあり。西北二百歩、巡邏かと。」

 

 サイラスは手を上げた。

 その瞬間、全員が息を潜め、風に揺れる草の音がやけに大きく響く。

 火縄銃を構えた兵は身を低くし、マントの陰に銃口を隠した。

 

 数呼吸の後、闇の中を野犬のような影が駆け抜け、すぐに姿を消した。

 

 「ただの斥候だ。」アレックが小声で断じた。


 サイラスは手を再び上げて合図した。

 「進むぞ。夜が明ける前が勝負だ。」

 



 月は薄く光り、霧がゆっくりと引いていく。


 一時間の潜行の末、一行は敵軍の補給中継地点に迫った。

 森の端に設けられた穀物倉と臨時厩舎。幕舎の間を灯りが揺れ、警備は少数で声もまばら。二線の兵站要員が中心だ。

 

 サイラスは馬を止め、両脇の副官に声を落とした。

 「計画通りだ。ノイッシュは左の高地から守備を引きつけろ。アレックは林の下から接近し、一斉射撃で混乱を作れ。合図は三声の鳥笛だ。」

 

 ノイッシュは口角を上げ、珍しく笑った。

 「了解。今夜はこっちから先手を取ってやろう。」

 

 アレックは無言で頷くと、部隊を率いて森の奥へ消えた。

 

 数分後――

 暗闇に三声の鳥笛が断続的に鳴った。

 

 直後、「パァン!」という鋭い破裂音が夜を切り裂く。

 火花が瞬き、五つの銃口が一斉に閃光を吐いた。

 火薬が爆ぜ、ほぼ同時に五発が鳴り響く。

 

 敵の最前列にいた兵士たちは声を上げる間もなく三人が倒れた。

 

 続いてアレック隊の一斉射撃が側面を貫き、厩舎裏から駆け出そうとした哨兵たちを薙ぎ払った。

 馬が悲鳴を上げ、人が叫ぶ。

 陣営は一瞬で混乱に沈んだ。

 

 「突撃!」

 サイラスが剣を抜き、数名の近接兵を率いて中央から突入する。

 

 敵の守備隊は混乱して隊列も組めず、武器を抜くより先に斬り伏せられる者もいた。

 

 やがて敵も必死に集結を始めたが、すでに後方の糧秣車は燃え上がり、乾いた藁と油布が炎を食って爆ぜる。

 濃煙が夜空を覆い、馬たちが驚いて荷車を捨てて逃げ散った。

 

 「撤退だ!」

 サイラスは短く叫ぶ。目的は達した、深追いは不要だ。

 

 アレック、ノイッシュがそれぞれの隊を指揮し、素早く林へと退いた。

 追撃を試みた敵兵も煙と湿地に足を取られ、やがて行方を見失った。

 

 夜の帳が再び静けさを取り戻すころ、一行は集結地へと戻ってきた。

 

 サイラスは馬を降り、周囲を見回した。

 「全員揃っているか。」

 

 「軽傷二名、死者なし。」アレックが簡潔に答える。

 

 「糧秣はほぼ全焼。幕舎も半分燃えたな。」

 ノイッシュは上機嫌に笑い、「今夜は奴ら、煙と空腹で過ごすしかない。」

 

 サイラスは小さく息を吐いた。表情は変わらない。

 「……始まったばかりだ。」

 

 冷たい夜風が彼の頬をなでる。

 彼は遠く、まだ赤く燻る敵陣を見据えた。

 次の戦いが、もうそこまで迫っているのを悟りながら。


◆ ◆ ◆


 朝霧がまだ消え切らず、癒傷幕の脇には編み籠に詰められた薬草が並んでいた。

 湿り気を帯びた空気が白く漂う。


 エレが歩み寄ると、リタが黙々と薬草を分別していた。手際は変わらず素早い。

 だが灰緑色の葉を左側の籠に入れようとした瞬間、エレがそっとその手首を押さえた。

 

 「……それ、右側だよ。」

 柔らかく囁きながら、指先で葉を拾い上げる。

 

 リタは一瞬きょとんとしてから、「あっ……」と小さく笑った。

 「そっか、間違えた。」

 

 エレはしゃがみ込み、彼女を見上げた。

 声は優しいが、目の奥に小さな観察の色が宿る。

 無意識のようでいて、どこか探るように。

 

 「……リタ、前はこんな間違いしなかったよね。」

 

 リタは視線を落としたまま、小さく息を吐いた。

 「最近……ちょっと疲れてるだけ。初めての従軍で、全部がうまくいかない。」

 

 「……そう。」

 エレは軽く頷き、隣に座る。

 手を膝の上で組み、ぼんやりと明るくなっていく空を見つめた。

 

 しばらく沈黙が流れる。

 

 やがて、エレがぽつりと呟く。

 「数日前……サイラスに聞かれたの。 エスティリアに帰りたいかって。」

 

 リタの手がぴくりと止まった。

 

 「その時は何も考えずに、『どこでもいい』って思った。けどあとから気づいたんだ。……私には、リタがいるじゃない。」

 

 リタは慌てたように顔を上げる。

 「いいんだよ、私はもう……」

 

 「でも、あまり家族のこと話さないよね。」

 エレは言葉を被せたが、声音は変わらず優しかった。

 「弟がいるって言ってた。お母さんも。でもそれ以外、ほとんど何も。」

 

 リタのまつげがかすかに震え、笑みが一瞬だけ固まった。

 「……もう大したことじゃないの。とっくに大事じゃなくなった。」

 

 軽い調子で流そうとするその声に、エレはそっと手を伸ばし、リタの手の上に重ねた。

 指先はあたたかく、しっかりとした感触だった。

 

 「言いたくないなら言わなくていい。でも、私を信用していいんだよ。」

 

 外では馬の蹄音と長い角笛の音が響き、別の部隊が出立の準備を始めていた。

 朝日が幕舎の布を通し、柔らかい光を差し込む。

 

 リタは伏せたまつげを震わせ、霧のようにか細い声で返事をした。

 「……うん。分かってる。ありがとう。」

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