(163) 絆の安堵
夜は深まり、城壁の高所から吹き込む風が要塞の幕舎を小さく揺らしていた。
軍議が終わり、人々が次々と退室した後、会議室には資料をまとめるヴェロニカと、黙したままのサイラスだけが残っていた。
「手配は済ませたわ。」
ヴェロニカが顔を上げ、彼を一瞥する。
「彼女、すぐあなたの部屋に行くはずよ。」
サイラスは返事をしなかった。ただ最後の羊皮紙を静かに折り畳み、ゆっくりと立ち上がった。
ほどなくして、エレは本館へと案内され、灯りの弱い部屋へ通された。
扉は半開きになっていた。
中へ入ると、サイラスが窓辺に立っていた。軍装はまだ砂塵にまみれたまま、マントも肩に半ばかけたまま。
足音に気づいて振り返り、変わらぬ平坦な声で言う。
「今日も疲れただろう?」
エレは立ち止まり、視線を伏せた。
「大丈夫。……呼んだって聞いて。」
「……ああ。」
サイラスは小さく頷き、机に用意していた書類を手に取る。
「これは今後数日の癒傷幕への物資配分だ。目を通してほしい。それと各所の配置図も……」
声は変わらず事務的で、あくまで任務の確認のようだった。
エレは紙を受け取ったが、指先が少し冷えていた。
彼が本当にこれだけを言いたいわけじゃないのを、分かっていた。
彼女は資料を見ずに問いかける。
「……それだけのために、今夜呼んだの?」
サイラスは視線を外さず、しばらくの沈黙のあとで低く答えた。
「……それだけじゃない。」
手袋を外し、椅子に腰掛けたまま琥珀色の瞳で彼女を見つめる。
「帝都を出てから、こんなに静かに話せる時間なんてなかった。」
エレは何も言わず、その顔を見つめ返した。
蝋燭の光が、彼の目の奥に沈む疲労を照らし出す。
サイラスはゆっくり立ち上がり、机を回り込んで彼女の前に来た。
エレが何か言うより早く、その体を抱きしめた。
言葉はなく、ただ静かに、しかし強く。
この一瞬を記憶に刻み込むかのように、あるいは初めて自分から誰かに寄りかかるように。
エレは最初こそ少し驚いたが、すぐに体の力を抜き、そっと彼の背に腕を回した。
——「彼女はお前じゃない。」
あの一言が、唐突に胸を刺すように思い出された。
その時は針のように痛く、彼女の一番脆い部分を突いた言葉だった。
忘れようとしたけれど、本当は忘れられなかった。
けれど今、無言のぬくもりが全てを包むように感じられた。
言葉よりも、どんな約束よりも真実味を帯びて。
——もしかしたら、この不安はもう、手放していいのかもしれない。
そっと顔を彼の肩に埋め、目を閉じて、その棘をゆっくりと沈めていった。
二人はしばらく抱き合ったまま、壁の蝋燭が揺らめく音だけが響いていた。
しばらくして、エレが顔を上げた。
そっと彼の頬に触れると、その下に隠しきれない疲労が感じられ、胸が痛んだ。
「……すごく疲れてる顔してる。」
優しく囁く。
「少しは休まなきゃ。」
サイラスは黙って彼女を見つめ返した。
瞳はいつも通り冷静だったが、どこか素直で、剥き出しのようだった。
「……だから、お前が残れ。」
エレは一瞬言葉を詰まらせ、それから小さく笑った。
「……いいの?噂されるよ。」
「言わせとけ。」
サイラスは淡々と、だがわずかに悪意をにじませた声で言った。
そのまま身を屈め、彼女を軽々と抱き上げてベッドの端に座らせた。
「噂する奴がいたら、叩き出してやる。」
「……もう、ほんとに……」
エレは呆れたように苦笑し、首を振った。
彼がそっと毛布をかけてくれる。
その仕草は不思議なほど穏やかで、まるでずっと背負ってきたものを一瞬だけ下ろしたかのようだった。
エレは小さく囁いた。
「……じゃあ、あんたが寝たら帰る。」
サイラスは短く「……ああ」とだけ返事をして、マントを脱ぎ、ゆっくり靴を脱いで隣に横たわった。
部屋の灯りは次第に暗くなる。
やがて、彼の呼吸は深く、静かになった。
その時、かすかに漏れる声が聞こえた。
「……来てくれて、ありがとう。」
ほとんど聞き取れないほど小さな声だった。
でも彼女にははっきりと聞こえた。
エレはただその手を握り、黙って寄り添った。
壁の蝋燭は小さく燃え残り、頼りない炎を揺らしていた。
彼の耳に揺れる月長石のピアスが、ほの青い光を反射していた。
それは彼女自身の瞳と同じ色の石。彼女が自ら選んだものだった。
自然とその視線が彼の横顔に移る。
冷たい線を引くような輪郭、伏せた長い睫毛。
その顔を見て、ふと小さく笑ってしまった。
サイラスが目を薄く開ける。
「……何がおかしい。」
「……マミーのことを思い出してた。」
エレの声はどこか甘く柔らかかった。
「昔、綺麗な人の顔を見てるとご飯三杯食べられるって言ってたけど……こういうのは贅沢なんだって。」
サイラスは一瞬目を見開き、そして小さく笑った。
「リナ様か……あの人は本当に不思議な人だな。」
「うん。」
エレは軽く頷き、指先で毛布の端をつまみながら、少し声を落とした。
「今はどうしてるのかな……」
しばらく間を置いてから、彼がぽつりと尋ねた。
「……エレ、 エスティリアに帰りたいか?」
エレは目を伏せ、わずかに戸惑ったように息を呑む。
あの国、あの宮殿、旗、祭壇——決して忘れたことはなかった。
でも今、この問いを受けた瞬間、最初に浮かんだのは「離れたくない」という気持ちだった。
「……分からない。」
声は小さく、でもどこか安堵したようでもあった。
「前は帰るって決めてた。でも今は……そんなに大事なことじゃない気がする。」
ゆっくりと彼を見上げ、かすかに笑った。
「それよりも、ここで何ができるかを考えたい。何かを残したい。」
サイラスは何も言わなかった。
ただその手を伸ばし、彼女の手を静かに包み込んだ。
言葉はなくても、その沈黙は全てを伝えていた。
エレはベッド脇で身体を寄せ、壁にもたれた。
夜風が窓の隙間を抜け、わずかな霧を運んでくる。
サイラスは横向きに眠りにつき、呼吸は深く穏やかだった。
エレもまた、そのままそっと目を閉じ、いつしか同じ静寂に包まれていった。
彼女は夢を見た。
火の手と砕けた木材、土煙に崩れる影。途切れ途切れの泣き声と呼ぶ声が耳を打つ。
だが像は割れた鏡のように不鮮明で、ひとつに繋がらない。
次の瞬間、まるで世界が変わったように、全く知らない街を歩いていた。
高層の建物、光る箱、耳障りな金属音を立てて走る車両。
あたりをきょろきょろ見回していると、聞き慣れた声がする。
「エレ?」
振り返ると、そこにいたのは 莉奈だった。
見たこともない服を着て、手には光る板を持っている。
「どうしてこんな所に来たの!?」
莉奈は驚きと焦りで目を見開き、手を強く引いた。
「早く帰りなさい、ここはあなたのいる場所じゃない!」
「マミー……ここって、どこ……?」
問いかけるより早く、背後で眩い光が炸裂した。
エレは目を覚ました。
そこは見慣れた昏い部屋。
サイラスはまだ眠ったままで、穏やかな呼吸を続けている。
その顔は普段よりも柔らかく、苦悶の影はほとんど消えていた。
彼女はそっと自分の手首を握った。
かすかに震えていた。
「……マミー。」
低く呟くと、彼の毛布をそっとかけ直し、もう目を閉じずに、夜の静けさの中で彼を見守り続けた。




