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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
寒鉄に響くの刻

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161/194

(161) ラセレン要塞

  灰色の雲が空を覆い、要塞の輪郭が霧の中にぼんやりと浮かんでいた。


  ラセレン――帝国東境の最重要防衛線。今は眠れる巨獣のように、静かに嵐を待ち受けている。


 全軍は尾根道を蛇行しつつ進軍し、土埃と蹄音が重いリズムを刻む。

  誰も多くを語らない。普段最も口数の多いノイッシュでさえ、ただ黙って隊列の端を歩き、眉間に皺を寄せていた。


 エレは輸送馬車の中でマントを引き寄せ、少し俯き加減で外を見つめていた。外からはその表情はうかがえない。

  彼女の頭には、あの言葉が何度も反響していた。はっきり聞き取れなくても分かる、あの説明のいらない沈黙。

  問いただしはしなかった。ヴェロニカも何も言わなかった。

  お互い何もなかったように振る舞い、それぞれの役割を演じる。それだけだった。


 サイラスは隊の先頭を進む。軍馬は静かに蹄を刻み、風が黒いマントをはためかせても、隠しきれないほどの重苦しい表情が目に浮かぶ。


  刺客は未だ潜み、前線は不確定、軍心も固まらない。


  まるで三重の重圧を背負って進軍しているようで、それ以上に彼を疲弊させたのは――エレの沈黙だった。


 彼女は問い詰めるでも逃げるでもなく、ただ無言でいた。

  だが彼には分かっていた。彼女は聞いた。聞いて、そして再び彼を遠ざけていることを。

  ほんの数列後ろにいるはずなのに、その距離は一つの戦線を隔てたほど遠く感じられた。

  そんな距離感に、彼は慣れていなかった。むしろ苛立ちすら覚えていた。


 ヴェロニカが馬を寄せ、小声で告げた。

  「要塞に着いたらまず補給の整理と防衛線の視察を。城主の使者が迎えに来てるわ。」


  サイラスは黙って頷いた。


  ヴェロニカは彼を横目で見て、薄く笑う。

  「そんな暗い目でいたら、一人でこの戦を全部背負うつもりだって思われるわよ。」


  サイラスは苦笑を漏らした。

  「違うのか?」

  彼女は返事をせず、ただ微笑を残して馬を離れた。


 サイラスは再び後方を振り返る。

  彼女は隊列を外れることもなく、弱音も吐かずに進んでいた。

  だがその距離は確かにあった。彼女を近づける権利を、もう失ってしまったような感覚。

  今の彼には、彼女の気持ちをどうこうする余裕などなかった。

  ただ願うのは一つ――


 せめて、この戦が終わるまでは。

  彼女が折れずにいてくれることだけだった。




  ラセレン要塞。帝国東境最古の石造防壁の一つは、今や灰色の沈黙を纏った鉄の城砦だ。


  冷たい風に晒されながら、戦火を待つ死線の縁に佇んでいる。

  切り立ったような高い壁は射手楼と塔を連ね、戦前特有の静謐を纏っていた。

  未使用の狼牙車や投石機が鎖で吊られ、まるで眠る獣が号砲を待っているかのようだ。


 内部は段状に区画が分かれ、中央の軍指揮区は他の建物より一段高く、戦線を一望できる構造。

  歩兵の訓練場や癒傷区画が両翼に広がり、仮設テントや補給隊の列も秩序正しく並ぶ。

  兵士たちは無駄口を叩かず、緊張した空気を保っていた。

  戦はまだ始まっていない。だが、最初の矢が放たれたその瞬間、この要塞は真っ先に炎に包まれる―


  誰もがその事実を理解していた。




  サイラス率いる隊が要塞に入ると、城主の側にはレオン伯爵の姿があった。

  帝都で見た豪華な礼装はなく、簡素で実用的な鎧とマントをまとっている。


  守衛が重い扉を開くと、レオンが真っ先に一歩踏み出して迎えた。

  疲れが見える顔に、それでも貴族らしい余裕の笑みを浮かべて。


「ようやく来てくれたか。」

  声は軽く冗談めいていたが、その瞳には明確な戦備の重圧があった。

  「この三日で商隊二つ、補給糧秣は届いたが、矢弾だけはまだ足りない。あと一日遅かったら、俺が先に前線を塞がねばならなかったぞ。」


  サイラスは馬を降り、手袋を外しながら答えた。

  「そう言われると、早く来すぎた気がしてきたな。」


  レオンはくっと笑い、軽く肩を叩く。声を潜めて囁くように言った。

  「城主が中で待っている。それと……何人か地方貴族の代表も来ている。お前の顔は知らない連中だ。」


  ――「皇帝陛下が急に“王子”と認めたって話、まだ全土には浸透していないからな。」

  敵意のある言い方ではなかった。むしろ忠告めいた含みがあった。


 ヴェロニカが横から淡々と口を挟む。

  「なら、ここで覚えさせればいいわ。」




 城主グラン・ハロルドは五十代ほどの歴戦の将で、代々軍人の家系に生まれ、長年ラセレンを治めてきた人物だ。

  頑健な体躯に風雪を刻んだ顔、軍務に対する態度はきわめて厳格だ。


 サイラスが大広間に入ったとき、グランは数名の将校と共に軍糧や人員の帳簿を簡潔に確認していたが、彼の姿を見るや即座に手を止め、立ち上がって礼を取った。


「殿下、こちらに指揮席と戦況図をご用意しております。」

 その声色には余計な敬意や感情はなく、あくまで「共に戦う将」として接しているのが伝わる。

  鋭い眼光と言葉は命令のように重く、ここが帝都の華やかな宴会場ではなく、戦場であることを瞬時に悟らせた。


 サイラスは軽く頷き、偉ぶることなく簡潔に応じた。

「礼は不要だ。今は戦場だ。」

 その一言に、グランの顔にわずかながらも認めるような色が浮かぶ。


 ヴェロニカが新たな敵軍動向の報告書を手渡し、レオンも補給、人員、陣地状況を簡潔に説明していく。

  空気は緊張感に満ち、判断も迅速だ。まるで既に戦時体制に完全に入っているかのようだった。


 そしてサイラスの背後には、外套を羽織ったエレがリタと共に控えていた。

  周囲の視線には疑念もあれば無関心もある。それでも彼女は視線を落とさず、じっとサイラスと地方権力との駆け引きを見つめていた。


 これは剣を振るわない戦い。

  ——だが彼女は気づき始めていた。ここからが本当の「戦場」なのだと。

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