(160) 夜風が刺す心の痛み
夜は深まり、野営地の灯火も次第にまばらになり、林の縁を巡回する哨兵だけが足音を響かせていた。
サイラスは指揮幕の外に立ち、肩にかけた黒いマントを風に揺らしながら、しばし黙考した後、幕内へ入った。
中ではヴェロニカがすでに待っていて、机の上には巡回記録と地図が広げられていた。
「彼女から聞いたわ。」
ヴェロニカはサイラスが口を開く前に、落ち着いた声で言った。
「確かに誰かが彼女を見張っていた。舞踏会の夜にいた尾行者と同じタイプね。」
サイラスの顔に驚きはなく、椅子を引いて座ると低く返した。
「タルンナみたいな場所で動きがあるのは、考えておくべきだった。」
地図の駐屯点を指で辿りながら、さらに沈んだ声で続ける。
「……ただ、見つかるとは。あまりに拙速だ。」
ヴェロニカは彼を一瞥し、淡々と言った。
「刺客が狙うのは彼女か、あるいはあんた自身か。相手にとってはどこにいようと変わらない。あんたが連れて来なくたって、皇城の夜みたいに、結局手は出すわ。」
彼女は少し間を置き、冷たく笑った。
「本気で殺る気なら、宮廷舞踏会にだって潜り込めたんだ。帝都だって戦場より安全ってわけじゃない。」
サイラスは答えず、指先で机をトントンと軽く叩き、しばらくしてから低く呟いた。
「……傍に置くほうが、制御しにくくなると思った。だが今となっては、少なくとも自分の目で見ていられる。」
その声は低く、眉間には拭えないほどの重い影が落ちていた。
ヴェロニカは彼をじっと見つめたが、何も言わずに偵察の書類を整理し続けた。
しばらく沈黙が流れた後、サイラスが不意に口を開いた。
「お前には負担をかけてる。軍全体の偵察と情報が、お前一人の肩にかかってる。」
ヴェロニカは手を止め、わずかに首を傾げて彼を見ると、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「珍しいわね、そういうこと言うの。」
「事実だ。」
サイラスは感情のない声で返し、無意識に耳元の月長石のピアスを指で撫でた。
ヴェロニカは椅子の背に軽くもたれ、柔らかく言った。
「……私を信頼してないわけじゃない。でも知ってるでしょ。全体を見渡せるのが私しかいないのは、今この状況だからに過ぎない。」
「分かってる。」
サイラスは頷き、再び書類をめくりながら呟いた。
「だから言った。お前には負担をかけてるって。」
幕内は再び静かになり、外の哨兵の足音や遠くの火の揺らめきが微かに響いた。
二人とも理解していた。これは大嵐が来る前の、ほんの短い呼吸の間だということを。
ヴェロニカはしばらく何も言わなかったが、ふと目を細め、声を少しだけ柔らかくした。
「……後悔してるの? 彼女を連れて来たこと。」
サイラスは答えず、視線を机に広げた配置図へ落とした。そこには、彼女の幕の位置が赤く印されていた。
火の光がその目に反射し、何かを飲み込むように深く揺れた。
「……後悔じゃない。」
低い声が漏れる。かすかに掠れた声音だった。
「ただ……リスクを測ってる。」
「リスクの計算なんて、あんたはいつも得意じゃない。」
ヴェロニカは皮肉も交じらない淡い声で言い、水筒を手に取ると水を注ぎ、彼の前に置いた。
「彼女がここにいる意味、分かってるでしょ。」
「彼女はお前じゃない。」
サイラスは思ったより鋭く、苛立つように吐き出した。言ってから目を伏せた。
ヴェロニカは一瞬驚いたように目を見開き、それから小さく笑った。その声は優しく、でも少しだけ刺すようだった。
「知ってるわよ。」
彼女は一歩近づき、両手を机について身を寄せるようにして、低く囁いた。
「私と違って、あんたは彼女には、信頼だけじゃなくて、近づきたいんでしょう。」
距離が一気に縮まり、互いの呼吸が触れ合いそうになった。
だがサイラスは目を伏せたまま動かず、ただ机を見つめた。
「……お前みたいなのが必要だ。」
彼は冷静な声で言った。
ヴェロニカはゆっくり身体を離し、軽く肩をすくめた。
「そうね。あんたが欲しいのは、敵の動きを読めて、感情を挟まずに処理できる人間。」
彼女は言葉を区切り、口角を少し上げた。
「でも、あんたが守りたいのは、そういう人じゃない。」
サイラスは答えなかった。
ヴェロニカは最後の情報紙を整え、彼の肩を軽く叩いた。
「もう休みなさい。明日は発つ日よ。」
そう言って背を向けて出ていく。マントが夜風に揺れて、かすかな香りを残した。
サイラスはそのまま机に伏せるように座り込み、目の前の水の入ったカップを見つめた。
指先がゆっくりと握り込まれるが、結局何も言わなかった。
その夜、エレはなかなか眠れなかった。
こんなにもはっきりと「自分はまだ、彼の世界にとって“部外者”なのだ」と痛感したのは初めてだった。
聞くべきではなかったと分かっていた。気にすべきではないとも分かっていた——でも、気にしてしまった。
もともとは診療報告をヴェロニカの幕舎まで届けるつもりだった。だが副哨兵が「大人はさっき指揮幕へ行きました。殿下と何か話してるみたいです」と言うのを聞いて、エレは一瞬だけ迷った末に、幕舎群の小道を回り込んだ。
林を抜ける風が冷たく、彼女はそっと指揮幕の陰に身を潜めた。
中からかすかな声が聞こえる——聞き慣れた声だ。サイラスとヴェロニカの声。
帰ろう、と踵を返しかけた瞬間、耳に飛び込んできた。
「彼女はお前じゃない。」
サイラスの声は低く抑えられ、無意識に絞り出したように急いた響きがあった。
エレの身体がびくりと震えた。
幕内は数秒、息を呑むように静まり返り、それから——
ヴェロニカが柔らかく笑う声がした。
戦場での冷たさも、軍人同士の報告の硬さもない、極めて個人的で、どこか感情の滲む声。
「分かってるわよ。彼女は私じゃない。」
エレは反射的に一歩退き、足元の枯れ枝を踏んだ。
「パキン」という小さな音に息を詰めたが、幸い中の二人は気づかなかったようだ。
それ以上は聞けなかった。もう立っていることすらできなくて、彼女はくるりと向きを変え、足早にその場を離れた。
幕へ戻る道すがら、心臓が早鐘のように打ち続けていた。
あの言葉の本当の意味は分からなかった。
比較? 感情? それとも彼女の知らない過去の何か?
分からない。
でも、確かにあの「彼女はお前じゃない」という一言が胸に鋭く刺さった。
彼女は知っていた。
ヴェロニカとサイラスが、戦場で最も深く呼吸を合わせる盟友だということを。
彼の選択を疑ったことなど一度もなかった。
——でも。
あんな声を聞いたことはなかった。
赤獅堡で見た光景を思い出した。
ろうそくの光に照らされた二人。
ヴェロニカは慣れた手つきで肉を切り分け、戦況を分析し、互いにほとんど言葉も要らず目線を合わせるだけで通じていた。
あれには一切の色気も甘さもなかったはずなのに、どんな愛の言葉よりも胸に刺さった。
あの時、ただの自分の被害妄想だと思った。
努力して、証明すればいい。
同じ場所に立つ資格を手に入れればいい。
そう思っていた。
でも今夜、やっと分かった。
自分が「証明」しなければならなかった理由は、そもそも——
最初から、当然のようにそこにいていい存在じゃなかったからだ。
自分はヴェロニカじゃない。
彼と肩を並べて戦い、軍議に加わり、誰にも「なぜここにいるのか」と問われない人間じゃない。
異国から逃げてきた流浪者で、「舞姫から癒傷者に変わった」という噂の的で、
今も誰にもはっきりと定義されていない、そんな存在だ。
胸がぎゅっと詰まって、抑えてきた感情が苦く滲んだ。
それは単なる疑念でも、嫉妬でもなかった。
あの痛みは——
「誰かにあまりに近づきすぎたせいで、気づいてしまう。
自分はその人の隣に立つ位置すら、まだ得られていないんだと痛感する」
そんな、言葉にならない痛みだった。
無理やり横になり、毛布を引き寄せても、あの言葉は消えなかった。
夜風が幕の外を吹き抜けるたび、心の中で何度も繰り返し囁かれるようだった。
「彼女はお前じゃない。」




