(16) ブレストの市街
ブレストの市街には、辺境都市ならではの活気が満ちていた。
商人たちの威勢のいい呼び声が飛び交い、異国の香辛料の香りが風に乗って漂う。
露店の店主は自慢の品を手に取り、行き交う旅人や冒険者たちに熱心に売り込んでいた。
この街の賑やかさは、まるで生き物のように脈動している。
エレは歩調を緩め、慎重に周囲を観察しながら進んでいた。
急ぎすぎる素振りを見せれば、無駄に目立ってしまう。
今の彼女にとって、この街はまだ未知の場所——
焦りは禁物だった。
——だが、それ以上に警戒すべきものが、すぐ隣にいる。
彼女は礼儀正しく振る舞い、言葉を慎重に選び、できるだけ無難な返答を心がけた。
そして何より、相手の動きを密かに観察することを忘れなかった。
一方のカインは、気ままに市街を歩きながら、時折露店の前で足を止め、
「ここのパンは焼きたてが美味いぞ」
「この鍛冶屋はなかなか腕がいい」
などと、他愛もない案内を続けていた。
しかし——
彼の視線は、まるで無造作に彷徨っているように見えて、時折、彼女の反応を窺うように留まる。
まるで、目の前の獲物がどんな動きをするのか確かめるかのように。
「……辺境の街よりも、帝都のほうが興味を引かれるんじゃないか?」
カインがふいにそう言った。
声音は淡々としており、深い意味があるのかどうか、一見ではわからない。
エレの指が、披風の裾をそっと握る。
表情は変えず、しかし心の内ではわずかに緊張が走った。
——探りを入れてきた。
だが、それくらいは予想の範囲内。
エレは柔らかく微笑み、落ち着いた口調で返す。
「帝都は貴族と権力者の世界です。」
「私のような舞姫には、縁のない場所でしょう?」
さらりとした物言い。
だが、それだけでは警戒していると思われる。
彼女は一拍置き、穏やかな笑みを浮かべた。
「——とはいえ、王族の前で舞うのは、表現者にとって最高の名誉。」
「憧れを抱くのも、当然ではありませんか?」
それは、本音とも取れるし、単なる世辞とも取れる。
言葉の裏を探らせないよう、巧妙に織り交ぜた返答。
カインの瞳が、僅かに細められる。
「……そうか。」
短く返しながらも、唇に微かな笑みを浮かべた。
「どうやら、帝都への憧れは強いみたいだな?」
どこか軽やかで、からかうような声音。
けれど、その奥に潜む探るような気配は、先ほどよりもさらに色濃くなっていた——。
エレはカインの視線を避けることなく、むしろ愉しげに微笑みながら首を傾げた。
琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめ、柔らかな声で問いかける。
「……カイン様も、帝都には随分とお詳しいようですね?」
カインは眉をわずかに上げ、意味ありげに微笑んだ。
「貴族だからな。」
短い答え。だが、そこには微妙な余韻があった。
「へえ?」
エレは目を細め、わざとらしく感心したように頷く。
そして、さらりとした口調で言葉を紡ぐ。
「でも、ブレストにいる貴族の方々は、こんな辺境で悠々自適な生活を送っているものじゃないんですか?」
「どうしてわざわざ帝都のことなんか、そんなに気にされるんでしょう?」
そこまで言うと、ふと楽しげな笑みを浮かべる。
「もしかして……本当は宮廷で踊るのが夢だったりして?」
その軽やかな冗談に、カインは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせる。
だが、すぐに喉の奥で小さく笑い、肩をすくめた。
「なるほど、それは面白い推測だ。」
「だが残念ながら、俺の興味はそこにはない。」
「それは残念ですね。」
エレは微笑を保ちながら、さらりと受け流す。
そして、あえて軽やかな声で続けた。
「てっきり、貴族の務めというのは、舞踏会で貴婦人方と踊ることも含まれているのかと思いました。」
何気ない会話のようでいて、そこに込められた意図は明白だった。
彼の“帝都”への関心は、ただの貴族としての好奇心なのか? それとも——。
エレの瞳が僅かに細められる。
まるで冗談めかした軽口を交わしながら、確かな探りを入れるかのように。
そして、その瞬間——
彼女は気づいてしまった。
陽光を浴びるカインの首元。
そこに、琥珀のペンダントが揺れていることに。
——琥珀。
それは、このノヴァルディア帝国の象徴。
帝国の血統と、王権の証。
伝説によると——
最も純粋な琥珀は、王家の直系にしか持つことを許されない。
エレの指先が、わずかに握られる。
光を浴びたその琥珀は、深い黄金の輝きを放ち、まるで時間を封じ込めたかのように静かに煌めいていた。
侯爵の養子が、なぜそんなものを身に着けているのか?
それとも——
彼は“侯爵の養子”というだけの存在ではないのか?
エレは微笑を崩さぬまま、じっとカインの反応を観察していた。
まるで彼の些細な仕草さえも見逃すまいとするかのように。
しかし——
カインは彼女の視線に気づいた様子もなく、相変わらず気怠げな口調で言った。
「貴族の社交について、ずいぶん詳しいじゃないか。」
「もしかして……貴族の舞踏会をたくさん見てきた?」
エレはわずかに首を傾げ、指先でそっと銀白の髪を撫でる。
陽光を浴びた長髪は、淡い青紫の光を帯びながらさらりと揺れた。
「舞踏会……貴族にとっては娯楽の一つ。」
穏やかな声。
だが、その奥には、どこか遠いものを眺めるような冷静さが滲んでいた。
「でも、私たちにとっては仕事です。」
エレは柔らかく微笑む。
「これまでいくつもの宴で踊らせてもらいました。」
「華やかな場を目にする機会は多かったけれど……そこにいるのは、踊る者と踊らせる者。」
言葉を選ぶように、ゆっくりと紡ぐ。
「その煌びやかな世界は、楽しむためのものではなく——取引の場。」
あくまで客観的に、何の感情も込めずに。
まるで、己の立場をわきまえていると示すように。
カインの唇が、微かに持ち上がる。
「……なるほど。」
その琥珀色の瞳に、一瞬だけ興味の光が宿った。
だが、それもすぐに掻き消え、再び彼特有の気まぐれな笑みへと戻る。
まるで、「どちらが探りを入れているのか」試すかのように——。
この会話の主導権は、いったんエレに渡った。
しかし——
エレの胸の奥には、拭いきれぬ違和感が残る。
彼の態度が変わったわけではない。
言葉にも矛盾はなかった。
それでも、確信してしまう。
——この男は、決して「ただの貴族の養子」ではない、と。




