(159) 映す絆の決意
その夜、エレの胸中はまだ少し重かった。
周囲には風の音と騎士たちの整備する金属音が混じり、遠くで揺れる火光は夜間巡邏に出る小隊のものだった。
彼女が自分のテントへ戻ろうとしたとき、アレックとノイッシュが少し埃と草屑をまとって歩み寄ってきた。巡回を終えたばかりなのだろう。
「エレ嬢。」
ノイッシュは軽快だが礼を欠かさない口調で声をかけた。
「今戻ったところ?」
「うん。ヴェロニカに周辺の様子をしっかり見ておけと言われた。」
アレックは相変わらず落ち着いた声で答えた。
「不審者に見張られていたって言ってたって。」
エレは頷き、視線を林の方へ向けたまま、少し低い声で答えた。
「…できれば大事にしたくなかった。でも舞踏会の夜の刺客と同じなら、無視はできない。」
ノイッシュは肩をすくめた。
「正しい判断だよ。こっちは気をつけておく。」
そう言ったあと、ふと軽い調子で尋ねた。
「ところでリタは?今日は一緒じゃないのか?」
「街で集めた薬草を整理しておくって。先に戻って休んでてって言われたの。」
エレは落ち着いた声で返す。
二人は一瞬目を合わせ、それ以上は何も言わなかった。
少しの沈黙の後、アレックが口を開いた。その声はわずかに低かった。
「でも……一番心配なのは、殿下だと思う。」
エレは小さく息を呑んだ。
「サイラス?」
「前線に出るって決めた時から、変わったよな。」
ノイッシュも真顔で続けた。
「ずっと張り詰めてる。昔、軍学校にいた頃の…何も興味ないみたいな感じにも少し似てるけど、でも違う。」
アレックは遠く、灯りがわずかに漏れる主幕を見つめた。
「今の彼の沈黙は、逃げてるんじゃない。抑えてる。」
エレは唇を結び、胸に何とも言えない感情が広がるのを感じた。
そして低く呟くように言った。
「私の知ってる彼は、そんなじゃなかった。」
「笑ってたし、茶化すように私をからかったりしたけど、目はちゃんと優しかった。あの頃は……今よりずっとわかりやすかった。」
彼女はそこまで言って、言葉を止めた。
本当は、「あの彼が恋しい」と言いたかった。
ノイッシュも黙り込む。
アレックは静かに、だがはっきりと言った。
「……たぶん、三年前にエスティリアに行って、ブレストに戻ってきた頃からだな。」
エレがアレックを見た。
「戻ってきてから変わったんだ。」
アレックはゆっくりと言葉を続けた。
「それまでは表面上は従順でも、心はどこか冷めてた。でも帰ってきてからは、自分で領地を動かし、人脈を握り、エドリック殿下と狩りに行くくらいになった。」
「……強制されたのかもしれないけどな。」
ノイッシュは苦笑交じりに言った。
「でも、俺たちの記憶の中の“カイン様”じゃなくなった。」
エレは何も返さず、ただ焚き火を見つめた。
その炎の熱が、わずかに手に伝わってくる。
——たぶん自分は、誰よりも早く、そして誰よりも遅く、彼の世界に入ったんだ。
でももう、後ろから黙って見ているだけにはしたくない。
彼の沈黙や選択を、理解できないままではいたくない。
彼があの時、エスティリアに行ったのは「疲れた」からだと、知ってる。
でも帰ってきて変わったのは——自分と出会ったからだとも知ってる。
彼が一度、ぽつりと零した言葉を思い出す。
『こんな気持ちを、君に押しつけるなんて……重いよな? 』
あの時、エレはただ口づけで答えた。
でも、それだけじゃ足りない。
彼の「重さ」に押しつぶされてもいい。
——絶対に、その手を離さない。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
遠くの暗闇の中、微かに滲む灯火を見つめるその瞳は、さっきよりもずっと澄んでいた。




