(157) 白薔薇が刻む決意
空が徐々に暗くなり、隊は丘陵沿いの草地に野営を張った。
エレは癒傷馬車の脇に座り、重たいブーツを脱ぎ、赤く腫れた足首をそっと撫でた。指先もかすかに震えている。
腿の上には薬草の包みを置き、手首の古傷を押さえながら、ゆっくりと呼吸を整えた。
周囲には慣れない軍隊特有の空気が漂う。
忙しなく歩き回る足音、剣と鎧のぶつかる金属音、荒い号令。
ここは彼女が慣れ親しんだ帝都の邸宅でも、笑顔で踊る宴席でもなかった。
馬車の壁にもたれて目を閉じる。
脳裏に浮かんだのは、出発の朝にあった、短くも妙に心を揺さぶった一幕だった。
「ちゃんと連れて帰ってあげてよ。」
霧の中でエドリックが笑って言った。
彼は軽い調子だったが、その声の奥に微かに本気が滲んでいた。
エレはその言葉に一瞬固まり、返事をする前に彼はサイラスの方へ向かってしまった。
あの時は深く考える余裕もなかったけれど、今ははっきり分かる。
——彼は本当に、サイラスに無事でいてほしいと願っていた。
そしてその願いを、私に託したのだ。
風がテントの隙間を抜け、前髪をふわりと揺らした。
目を開けたエレは、薬草の包みをぎゅっと握りしめ、心に決意を刻む。
自分は兵士じゃない。誰かを守れる力もない。
でも——
あの人が、もう一人で前を歩かなくていいように。
せめて、もう振り返った時に誰もいないなんてことがないように。
この旅だけは、絶対に諦めない。
ちょうどその時、何人かの騎士が通りかかり、視線を向けてきた。
その中の一人が足を止める。
若い騎士で、鎧には貴族の家紋をあしらった飾りが付いていた。
そばの従者が低く「カティン様」と呼ぶ声が聞こえる。
「……これが噂の『白薔薇』ですか。」
茶化すような声で言い、その音量は周りにもはっきり届いた。
エレが顔を上げると、彼は口の端をつり上げたまま続けた。
「宮廷の舞姫から軍の後方支援とは、ずいぶん斬新だ。殿下の人材選びは相変わらず型破りだな。」
リタが眉を寄せて一歩踏み出しかけたが、エレは手を伸ばして制した。
ゆっくりと立ち上がり、相手をまっすぐ見据えた。
声は静かだが、一言一言に芯があった。
「私は戦功もないし、兵士でもありません。でも、ここにいる理由は分かっています。」
そこで一度言葉を切り、騎士の目を逃さずに続ける。
「貴方から見れば、私はただの飾り物でしょう。でも私は学んでいます。傷の処置、薬草の選別、擦り傷の包帯、そして最初の行軍からずっと耐えること。」
「身分を疑われても、ここに立つ資格を問われても、貴方の一言で私は去りません。」
若い騎士は眉をひそめ、何か言い返そうとしたが、その時副官が横から近づいた。
冷たい声で告げる。
「カティン様、夜間巡回の人員が足りません。報告に戻ってください。」
それが事実上の退場命令だと悟ったのだろう、騎士は鼻を鳴らし、不機嫌に背を向けて従者を伴い去って行った。
空気が少し落ち着くと、リタがそっと言った。
「……すごく良かった。でも、ああいう人は陰でまた何か言うわよ。」
エレは深く息を吐き、そっと腰を下ろしながら小さく笑った。
「なら……言えなくなるくらい、やるしかないわね。」
焚き火の灯りがテントの布に揺らめく影を落とし、風音と夜の馬のいななきが遠くから聞こえてくる。
サイラスは幕営の入口に立ち、灯りもつけず、人を寄せつけもしなかった。
風が彼のマントをそっとはためかせ、視線はさっき騒動があった場所に向けられている。
エレは退かなかった。怯まず、こちらを一度も見もしなかった。
助けを待たず、頼りもしなかった。
彼は長いことそこに立ち、その光景を心に刻むように見つめ続け、それからやっとテントの中に入った。
少しして足音が近づき、ヴェロニカが入ってきた。
マントを脱ぎ、椅子の背に無造作に掛けると、いつもの軽い皮肉を含んだ声で言った。
「声をかけに行かないの?」
サイラスは顔を上げず、ただ座ったまま淡々と返した。
「必要ない。」
ヴェロニカは眉を上げ、彼の正面の机に座り、補給報告の紙を一枚手に取ってめくりながら、からかうような口調を崩さない。
「へえ、らしくないじゃない。私ならあの小僧、蹴り出してたわよ。ずいぶん我慢強いのね。」
サイラスは答えず、ただ机の羽ペンを取って羊皮紙をめくり、何かを書きつけるだけだった。
その顔には湖面のような静けさがあった。
ヴェロニカは彼を一瞥し、ふっと笑ってから、声を落とした。
「彼女、普通の姫様じゃないわね。」
揶揄は消え、今度は少し考え込むような声音になっていた。
「エスティリアの教育って……面白いわ。」
サイラスの羽根ペン先が紙の上で一瞬止まった。
だが顔は上げず、低い声で答えた。
「それは教育の結果じゃない。」
ヴェロニカは片眉を上げた。
「じゃあ何?」
サイラスは羊皮紙を畳み、吹き込む風でわずかに揺れるテントの隙間を見つめた。
声はいつも通り低く落ち着いていた。
「生き延びるための方法だ。」
ヴェロニカはそれ以上何も言わず、立ち上がり机上の地図を軽く叩いた。
「明日の補給は南側の丘陵ルートよ。名簿まとめてくる。」
そして出入口まで歩きかけ、ふと振り返った。
声はやけに柔らかく、しかしはっきりと告げた。
「……何にせよ、あの子はちゃんとここまで来たわよ。声をかけるかどうかはあんたの自由だけど、あまり遅くならないうちにね。」
それだけを言って去って行った。
夜風がテントの幕をめくり、また静かに落ちる。
サイラスは去っていくヴェロニカの背を見送り、指先で机を軽く叩いた。
そこに置かれたエレの行軍記録は、まだ冒頭の行で止まったままだった。
名簿登録:エレノア、軍隊配属:癒傷隊(暫定)
続きを書くことはなく、そっと羊皮紙を畳み、低くつぶやいた。
「……まだ早い。」




