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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
白薔薇が導く出征の刻

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157/194

(157) 白薔薇が刻む決意

 空が徐々に暗くなり、隊は丘陵沿いの草地に野営を張った。

  エレは癒傷馬車の脇に座り、重たいブーツを脱ぎ、赤く腫れた足首をそっと撫でた。指先もかすかに震えている。

  腿の上には薬草の包みを置き、手首の古傷を押さえながら、ゆっくりと呼吸を整えた。


 周囲には慣れない軍隊特有の空気が漂う。

  忙しなく歩き回る足音、剣と鎧のぶつかる金属音、荒い号令。

  ここは彼女が慣れ親しんだ帝都の邸宅でも、笑顔で踊る宴席でもなかった。


 馬車の壁にもたれて目を閉じる。

  脳裏に浮かんだのは、出発の朝にあった、短くも妙に心を揺さぶった一幕だった。




「ちゃんと連れて帰ってあげてよ。」

  霧の中でエドリックが笑って言った。

  彼は軽い調子だったが、その声の奥に微かに本気が滲んでいた。


  エレはその言葉に一瞬固まり、返事をする前に彼はサイラスの方へ向かってしまった。

  あの時は深く考える余裕もなかったけれど、今ははっきり分かる。


 ——彼は本当に、サイラスに無事でいてほしいと願っていた。

  そしてその願いを、私に託したのだ。


 風がテントの隙間を抜け、前髪をふわりと揺らした。

  目を開けたエレは、薬草の包みをぎゅっと握りしめ、心に決意を刻む。

  自分は兵士じゃない。誰かを守れる力もない。


  でも——

  あの人が、もう一人で前を歩かなくていいように。

  せめて、もう振り返った時に誰もいないなんてことがないように。

  この旅だけは、絶対に諦めない。




 ちょうどその時、何人かの騎士が通りかかり、視線を向けてきた。

  その中の一人が足を止める。

  若い騎士で、鎧には貴族の家紋をあしらった飾りが付いていた。

  そばの従者が低く「カティン様」と呼ぶ声が聞こえる。


「……これが噂の『白薔薇』ですか。」

  茶化すような声で言い、その音量は周りにもはっきり届いた。


  エレが顔を上げると、彼は口の端をつり上げたまま続けた。

  「宮廷の舞姫から軍の後方支援とは、ずいぶん斬新だ。殿下の人材選びは相変わらず型破りだな。」


 リタが眉を寄せて一歩踏み出しかけたが、エレは手を伸ばして制した。

  ゆっくりと立ち上がり、相手をまっすぐ見据えた。

  声は静かだが、一言一言に芯があった。


「私は戦功もないし、兵士でもありません。でも、ここにいる理由は分かっています。」

  そこで一度言葉を切り、騎士の目を逃さずに続ける。

  「貴方から見れば、私はただの飾り物でしょう。でも私は学んでいます。傷の処置、薬草の選別、擦り傷の包帯、そして最初の行軍からずっと耐えること。」

  「身分を疑われても、ここに立つ資格を問われても、貴方の一言で私は去りません。」


 若い騎士は眉をひそめ、何か言い返そうとしたが、その時副官が横から近づいた。

  冷たい声で告げる。

  「カティン様、夜間巡回の人員が足りません。報告に戻ってください。」


  それが事実上の退場命令だと悟ったのだろう、騎士は鼻を鳴らし、不機嫌に背を向けて従者を伴い去って行った。



 空気が少し落ち着くと、リタがそっと言った。

  「……すごく良かった。でも、ああいう人は陰でまた何か言うわよ。」


 エレは深く息を吐き、そっと腰を下ろしながら小さく笑った。

  「なら……言えなくなるくらい、やるしかないわね。」


 焚き火の灯りがテントの布に揺らめく影を落とし、風音と夜の馬のいななきが遠くから聞こえてくる。

  サイラスは幕営の入口に立ち、灯りもつけず、人を寄せつけもしなかった。

  風が彼のマントをそっとはためかせ、視線はさっき騒動があった場所に向けられている。


 エレは退かなかった。怯まず、こちらを一度も見もしなかった。

  助けを待たず、頼りもしなかった。

  彼は長いことそこに立ち、その光景を心に刻むように見つめ続け、それからやっとテントの中に入った。




 少しして足音が近づき、ヴェロニカが入ってきた。

  マントを脱ぎ、椅子の背に無造作に掛けると、いつもの軽い皮肉を含んだ声で言った。

  「声をかけに行かないの?」


  サイラスは顔を上げず、ただ座ったまま淡々と返した。

  「必要ない。」


 ヴェロニカは眉を上げ、彼の正面の机に座り、補給報告の紙を一枚手に取ってめくりながら、からかうような口調を崩さない。

  「へえ、らしくないじゃない。私ならあの小僧、蹴り出してたわよ。ずいぶん我慢強いのね。」


 サイラスは答えず、ただ机の羽ペンを取って羊皮紙をめくり、何かを書きつけるだけだった。

  その顔には湖面のような静けさがあった。


 ヴェロニカは彼を一瞥し、ふっと笑ってから、声を落とした。

  「彼女、普通の姫様じゃないわね。」


  揶揄は消え、今度は少し考え込むような声音になっていた。

  「エスティリアの教育って……面白いわ。」


 サイラスの羽根ペン先が紙の上で一瞬止まった。

  だが顔は上げず、低い声で答えた。

  「それは教育の結果じゃない。」


  ヴェロニカは片眉を上げた。

  「じゃあ何?」


 サイラスは羊皮紙を畳み、吹き込む風でわずかに揺れるテントの隙間を見つめた。

  声はいつも通り低く落ち着いていた。


  「生き延びるための方法だ。」


 ヴェロニカはそれ以上何も言わず、立ち上がり机上の地図を軽く叩いた。

  「明日の補給は南側の丘陵ルートよ。名簿まとめてくる。」


  そして出入口まで歩きかけ、ふと振り返った。

  声はやけに柔らかく、しかしはっきりと告げた。

  「……何にせよ、あの子はちゃんとここまで来たわよ。声をかけるかどうかはあんたの自由だけど、あまり遅くならないうちにね。」


 それだけを言って去って行った。

  夜風がテントの幕をめくり、また静かに落ちる。


 サイラスは去っていくヴェロニカの背を見送り、指先で机を軽く叩いた。

  そこに置かれたエレの行軍記録は、まだ冒頭の行で止まったままだった。

  名簿登録:エレノア、軍隊配属:癒傷隊(暫定)

  続きを書くことはなく、そっと羊皮紙を畳み、低くつぶやいた。


「……まだ早い。」


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