表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
白薔薇が導く出征の刻

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

156/194

(156) 騎旗の下で

 空がほのかに白み始めた頃、赤獅堡の外の広場にはすでに数百名の兵士と騎士が整列していた。

  甲冑をまとい、槍を手に、林立する軍旗。

  馬の鼻息と甲冑のぶつかる音が、濃い朝霧の中で重く沈黙を押し広げ、緊張感を張り詰めさせていた。


 サイラスは指揮馬の前に立ち、行軍隊列を静かに見渡した。

  銀白の軍旗の下、ひときわ目を引くのは風にたなびく白い薔薇の意匠。

  優美でありながら、どこか孤高なその紋章に、サイラスの目が細められる。

  隣にいたヴェロニカに問いかけた。

  「この旗……お前が決めたのか。」


  ヴェロニカは旗を一瞥もせず、手袋を締め直しながら気だるげに返す。

  「気に入らない?」


  「白薔薇か。」

  サイラスは眉をひそめ、視線を細める。


  「……エレを思わせる。」

  ヴェロニカの声は淡々としていて、まるで他愛もない世間話のようだった。

  そう言うと、もうこちらを見ずに馬に跨がる。


  「先に偵察隊を連れて出るわ。前線の道を探る。

  ――無事を祈ってるわよ。赤薔薇の連中に食われないようにね。」


  口元に皮肉げな笑みを浮かべると、彼女は馬を回して駆け去った。

  銀のマントが霧の中でひらりと翻り、林道の先へと消えていく。


 サイラスはしばらくその場に立ち尽くし、はためく白薔薇の旗を見上げた。

  その瞳は深い影を宿す。

  視線を少し移すと、別の部隊の中に、真紅の薔薇を紋章にあしらった旗が何本も見えた。

  王太子派の貴族たちが率いる軍隊の印だ。


 そんなとき、不意に背後から聞き慣れた笑い声が響いた。

  「旗を見上げてるとは意外だな。こういう象徴に興味はないんじゃなかったのか。」


  エドリックの声だ。


  サイラスが振り返ると、彼は相変わらず悠然とした態度で立っていた。

  戦場には不釣り合いな貴族の礼装をまとい、わざわざ見送りに来たらしい。


 しかし、サイラスが注目したのはそれではなかった。

  エドリックが歩いて来た後方には、補給隊や癒傷班の馬車が並んでいる。


  その中に――エレの姿があった。

  防寒のマントを羽織り、背筋を伸ばして、出発の合図を待つように馬車の脇に立っていた。


「お前、彼女に何を言った?」

  サイラスの声は抑揚なく低かったが、その眼差しは鋭くエドリックを捉えたままだった。


  エドリックは眉を上げ、わざとらしく肩をすくめる。

  「ちょっと緊張してるように見えたから、安心させてやる言葉を。」


  「……何を言った。」

  追及するような声。


  だがエドリックは真正面からは答えず、少し考えるふりをしてから、ふっと笑った。

  「お前が絶対に口にしないようなことさ。」


  そう言って、ポンとサイラスの肩を軽く叩いた。

  その眼差しがふいに真剣な色を帯びる。


  「――ちゃんと帰ってこいよ、サイラス。」


 サイラスはすぐには返事をしなかった。

  ただ少しだけ首を傾け、再び白薔薇の旗を見上げた。

  それは風に揺れて、夜明け前の薄い金色の光を受けていた。

  遠くで行軍を告げる角笛の音が鳴り響き、戦争の影がついに現実のものになる。


 だが、白と赤が交錯するこの旗の下で、

  本当の戦場は、自分の胸の奥にこそあるように思えた。




 赤獅堡の軍鼓が鳴り響いた。

  霧がまだ立ちこめる砦外の広場では、数百の兵士たちが整然と隊列を組み、騎士たちは武装を点検し、補給物資を運んでいる。

  長い荷馬車の列は丘道の入口まで続き、まるでこれから進軍する鋼鉄の蛇のようだった。


 白薔薇の軍旗は総大将の槍に掲げられ、風が吹くたびに綿のように翻る。

  その下には鎧をまとった将校や貴族たちが一列に並んでいた。


 サイラスは黒いマントをまとい、馬上から遠くを見つめる。

  そして右手を高く上げ、低く、しかしはっきりと命じた。


  「進軍。」


 その声が落ちると同時に、号角が響き渡った。

  行軍の列が一斉に動き出し、まるで眠っていた鉄の要塞が目を覚ましたかのように、馬蹄が大地を打ち鳴らし、車輪が石畳をきしませる音が低い戦歌のようにこだました。


 エレは癒傷用の馬車の中に座り、防寒用のマントを肩にかけ、小さな薬袋を胸元でぎゅっと握りしめていた。

  車窓の布をそっとめくり、外の様子をじっと見つめる。


 行軍する旗が次々と視界を過ぎていく。

  風に震える数多の軍旗の中で、白薔薇の紋はひときわ目を引いた。

  清冽で冷たく、それでいて目を離せないほどの優雅さをたたえていた。


 彼女は最前列の、あの背中を見つけた。

  遠目でも、たったひと目で分かった。

  あれは、彼だ。

  隊列の最前で馬を御し、銀白の軍馬が不安げに蹄を鳴らすのをしっかりと抑え込んでいる。


 エレは深く息を吸った。

  心の中で言葉にできない高鳴りと、不安が同時に渦巻く。

  全てがあまりに現実的で、あまりに遠くて、そして恐ろしいほどに真実味があった。


 そのとき、隣に座っていたリタが彼女の様子に気づき、そっと身を寄せ、耳元で低くささやいた。

  「お姫様、今、あなたは本当に殿下と同じ道を歩いているんですよ。」


 エレは一瞬、はっとしてリタを見た。

  そして再び遠くの白薔薇の旗を見つめた。

  風は強く、その旗は天幕を引き裂かんばかりに大きくはためいていた。


「……だから、もう後ろには下がれない。」

  そう小さくつぶやいた。


 リタはそれ以上は何も言わず、ただそっと彼女の手を握った。

  自分の体温を少しでも伝えようとするように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ