(155) 決意のあとの始まり
朝霧に包まれた赤獅堡は、まだ薄暗く、湿った鉄の匂いと張り詰めた軍規の空気を孕んでいた。
城壁の上を巡回する兵士たち、練兵場で剣を振る騎士たち。
そのすべてが整然と動き、戦場への備えを感じさせる光景だった。
馬車が内門前に停まり、サイラスは深い色の軍装を纏い、自らエレとリタを伴って降り立った。
エレは前日よりも簡素で動きやすい訓練服に着替え、髪を高く結い上げ、その目には前日よりもずっと落ち着いた決意が宿っていた。
リタもまた、侍女らしさを脱ぎ捨て、髪をきつく縛り、軽い布製の甲冑を身につけていた。意外なほど機敏で締まった姿だ。
「……思った以上に、前線の匂いがするわね。」
エレが小声で呟き、練習中の騎士たちを見上げた。
サイラスは彼女を一瞥し、淡々と言った。
「まだ準備段階だ。国境に着けば、もっと忘れたくなるような臭いがする。」
エレは短く頷き、黙った。
もう現実から目を背けるつもりはなかった。
その時、内庭の方から聞き慣れた声が響いた。
「来ないかと思ったけど?」
ヴェロニカだった。
灰色の軍装をきっちり着こなし、書類のバインダーを手にしながら、真っ直ぐサイラスを見た。
サイラスは無表情のまま返した。
「覚えることは多くない。三日あれば流れくらいは頭に入る。」
ヴェロニカはちらりとエレとリタを見やり、厳しいというよりは評価するような目で一度頷いた。
「まずは補給管理、命令伝達、簡易医療。実技訓練は医療班に任せる。」
そう告げると、改めてサイラスに視線を戻した。
「……もう覚悟は決めた?」
サイラスは無言で頷いた。
「なら、すぐに軍議で説明しなきゃね。」
ヴェロニカの声は平静だが、その言葉には明らかに含みがあった。
「どうやってあの貴族連中を納得させるつもり?『女を戦場に連れ込んで色恋か』なんて噂、すぐ立つわよ。」
その言葉に、エレとリタは一瞬きょとんとして互いに目を見合わせたが、
サイラスは微動だにせず、ただ軽く手を振ると二人に向き直った。
「先に医療班に行け。今日から訓練だ。」
エレはまだ二人の会話を完全には理解していなかったが、素直に頷いた。
「……わかったわ。」
二人が立ち去ると、ヴェロニカはふたたび口を開いた。
「本気で連れていく気ね。私個人としては反対しないけど……わかってるでしょ、軍の中でどう噂されるかは。」
サイラスは表情を変えずに答えた。
「彼女は必要だ。俺は誰かの感情で軍を危険に晒す気はない。」
「ふーん。」ヴェロニカは少し目を細めた。
「でも、あの連中がそれを理解すると思う?」
「理解させる。」サイラスの声は低いが揺るがなかった。
「医療資源だ。舞姫じゃない。」
「……冷たい言い方ね。」
「軍の言葉で説明しているだけだ。」
サイラスの声には一片の感傷もなかった。
「百人救えるなら、誰といるかなんてどうでもいい。それが兵站だ。」
ヴェロニカはしばらく黙り込んだ。
そしてわずかに唇を曲げて、皮肉でもなく真剣な顔で頷いた。
「……わかった。私が話を通しておく。
『一日で何人救えるのか』『どれだけ損耗を減らせるのか』
結局、そういう数字を出せば、あの貴族たちも黙るわ。」
サイラスはちらりと訓練場の方向を見た。
「彼女自身が証明するさ。俺が弁明する必要はない。」
その言葉を聞き、ヴェロニカは小さく笑った。
本当に微かな、だが彼女らしい笑みだった。
――あんた、そんなに人を信じたこと、あった?
しかも、自分が制御できない相手を。
夜は更け、屋敷は暖炉のかすかな焔音だけを残して静まり返っていた。
エレは書き机に向かい、持って行く薬草や羊皮紙を丁寧にまとめていた。
ランプの光が白い指先を照らし、その手首には薄紅色の痕がかすかに浮かぶ。
二日目の訓練で転んだときにできた傷跡だ。治癒能力である程度は塞いだが、薄い痕はまだ消えきっていない。
そのとき、扉が軽く二度ノックされ、ゆっくりと開いた。
サイラスが深色のマントを羽織り、小さな薬瓶を手に持って立っていた。琥珀色の瞳が静かにエレを見つめている。
彼は余計な挨拶をせず、机まで歩み寄ると、その薬瓶をストンと置いた。
「外傷用だ。山査子樹脂を混ぜてある。明日は冷える、放っとくと熱を持って腫れる。」
エレは一瞬きょとんとし、無意識に手首を引っ込めた。
まるで秘密を見つかったような、少し落ち着かない動きだった。
「……なんで、それを?」
声はか細く、低く押さえられていた。
サイラスはじっと彼女を見た。夜のように深く静かな視線で、何もかもを見抜くように。
「昼から左手で草袋を持つ癖に変わった。食事もスプーンを握る手が不自然だった。包帯の巻き方がやけにきつい。」
彼はゆっくりと言葉を繋げ、淡々と要点を指摘した。
そして、袖口から覗く薄い傷跡を一瞥し、最後の一言はほとんど囁きのようだった。
「それに……お前の治癒は、自分には完璧じゃない。」
エレは息を呑み、言葉を失った。
このことを知っているのは、リタでさえぼんやり察している程度で、きちんとは話していなかった。
まさか、サイラスにだけは知られたくなかったのに。
唇を噛み、視線を落として小さく呟く。
「……治せないんじゃない。ただ……すごく痛いの。自分の痛みを切り開いて、縫い合わせるみたいで。」
口にしてしまってから、しまった、と思った。
そんな風に言えば、きっと彼は「だから来るな」と言う。
安全な場所に閉じ込めて、どこにも行かせないつもりだ。
でも――もう、バレてしまった。
短い沈黙が落ちたあと、エレは自嘲気味に苦笑した。
「だから隠してたの。私が耐えられないって思われたくなくて。」
サイラスは答えなかった。ただ、彼女の前にしゃがみこむと、そっとその包帯を取った手首を引き寄せた。
そして慣れた手つきで布をほどき、傷を確かめながら低く言った。
「……もう無理するな。」
その声は小さいのに、まるで命令のように強く聞こえた。
「本当に限界のとき、俺はお前のそばにいられないかもしれない。」
エレはぽかんと彼を見つめた。
サイラスは黙ったまま、薬を取り出して優しく塗り直し、包帯を巻き直していく。
手つきは熟練していて、けれど驚くほど丁寧で、傷をなるべく刺激しないようにしていた。
そこには「無理するな」と責める言葉はなかった。
ただ、無言のうちに滲む優しさがあった。
包帯を結び終え、彼がふと顔を上げたとき、エレは小さく声を絞った。
「……あなた、私を戦場に連れて行きたくなかったんじゃないの?」
サイラスの琥珀色の瞳が、真っ直ぐに彼女を映した。
「間違ったやり方で残るのは嫌だった。」
言葉は静かで、少しだけ柔らかかった。
「今みたいに後方でも医療でも、ちゃんと意味のある場所なら、認める。」
エレの目がかすかに潤んだ。
でも彼女は負けたくなくて、少し意地悪そうに笑った。
「……言い方が、まるで部下にする説明みたいね。」
サイラスは視線を逸らしかけたが、扉のほうに身体を向ける直前に低く呟いた。
「……それだけじゃない。」
それ以上は何も言わずに、立ち上がって扉へ歩き出す。
取っ手に手をかけ、開けかけて――少しだけ振り返らずに、声を落とした。
「明日は夜明け前に出る。……あまり遅くまで起きるな。」
それだけ言い残し、廊下に消えていった。
エレはぽつんと残され、しばらく呆然と扉を見つめた。
ごく普通の、なんてことない言葉。
でも、それは彼なりの気遣いで、彼が覚えていてくれる印だった。
――私の手の傷も、夜更かしする癖も、そして明日、同じ戦場へ向かう約束も。
机の上の薬瓶をそっと指先でなぞりながら、エレは誰にも気づかれないように、小さく微笑んだ。




