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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
赤獅の焰と孤影

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155/194

(155) 決意のあとの始まり

 朝霧に包まれた赤獅堡は、まだ薄暗く、湿った鉄の匂いと張り詰めた軍規の空気を孕んでいた。

  城壁の上を巡回する兵士たち、練兵場で剣を振る騎士たち。

  そのすべてが整然と動き、戦場への備えを感じさせる光景だった。


 馬車が内門前に停まり、サイラスは深い色の軍装を纏い、自らエレとリタを伴って降り立った。

  エレは前日よりも簡素で動きやすい訓練服に着替え、髪を高く結い上げ、その目には前日よりもずっと落ち着いた決意が宿っていた。

  リタもまた、侍女らしさを脱ぎ捨て、髪をきつく縛り、軽い布製の甲冑を身につけていた。意外なほど機敏で締まった姿だ。


「……思った以上に、前線の匂いがするわね。」

  エレが小声で呟き、練習中の騎士たちを見上げた。


  サイラスは彼女を一瞥し、淡々と言った。

  「まだ準備段階だ。国境に着けば、もっと忘れたくなるような臭いがする。」


  エレは短く頷き、黙った。

  もう現実から目を背けるつもりはなかった。


 その時、内庭の方から聞き慣れた声が響いた。

  「来ないかと思ったけど?」


  ヴェロニカだった。


  灰色の軍装をきっちり着こなし、書類のバインダーを手にしながら、真っ直ぐサイラスを見た。


  サイラスは無表情のまま返した。

  「覚えることは多くない。三日あれば流れくらいは頭に入る。」


  ヴェロニカはちらりとエレとリタを見やり、厳しいというよりは評価するような目で一度頷いた。

  「まずは補給管理、命令伝達、簡易医療。実技訓練は医療班に任せる。」


  そう告げると、改めてサイラスに視線を戻した。

  「……もう覚悟は決めた?」


  サイラスは無言で頷いた。


「なら、すぐに軍議で説明しなきゃね。」

  ヴェロニカの声は平静だが、その言葉には明らかに含みがあった。

  「どうやってあの貴族連中を納得させるつもり?『女を戦場に連れ込んで色恋か』なんて噂、すぐ立つわよ。」


 その言葉に、エレとリタは一瞬きょとんとして互いに目を見合わせたが、

  サイラスは微動だにせず、ただ軽く手を振ると二人に向き直った。


  「先に医療班に行け。今日から訓練だ。」


  エレはまだ二人の会話を完全には理解していなかったが、素直に頷いた。

  「……わかったわ。」


 二人が立ち去ると、ヴェロニカはふたたび口を開いた。

  「本気で連れていく気ね。私個人としては反対しないけど……わかってるでしょ、軍の中でどう噂されるかは。」


  サイラスは表情を変えずに答えた。

  「彼女は必要だ。俺は誰かの感情で軍を危険に晒す気はない。」


  「ふーん。」ヴェロニカは少し目を細めた。

  「でも、あの連中がそれを理解すると思う?」


  「理解させる。」サイラスの声は低いが揺るがなかった。

  「医療資源だ。舞姫じゃない。」


  「……冷たい言い方ね。」


  「軍の言葉で説明しているだけだ。」

  サイラスの声には一片の感傷もなかった。

  「百人救えるなら、誰といるかなんてどうでもいい。それが兵站だ。」


 ヴェロニカはしばらく黙り込んだ。

  そしてわずかに唇を曲げて、皮肉でもなく真剣な顔で頷いた。


  「……わかった。私が話を通しておく。

  『一日で何人救えるのか』『どれだけ損耗を減らせるのか』

  結局、そういう数字を出せば、あの貴族たちも黙るわ。」


 サイラスはちらりと訓練場の方向を見た。

  「彼女自身が証明するさ。俺が弁明する必要はない。」


 その言葉を聞き、ヴェロニカは小さく笑った。

  本当に微かな、だが彼女らしい笑みだった。


  ――あんた、そんなに人を信じたこと、あった?

  しかも、自分が制御できない相手を。




 夜は更け、屋敷は暖炉のかすかな焔音だけを残して静まり返っていた。

  エレは書き机に向かい、持って行く薬草や羊皮紙を丁寧にまとめていた。

  ランプの光が白い指先を照らし、その手首には薄紅色の痕がかすかに浮かぶ。

  二日目の訓練で転んだときにできた傷跡だ。治癒能力である程度は塞いだが、薄い痕はまだ消えきっていない。


 そのとき、扉が軽く二度ノックされ、ゆっくりと開いた。

  サイラスが深色のマントを羽織り、小さな薬瓶を手に持って立っていた。琥珀色の瞳が静かにエレを見つめている。

  彼は余計な挨拶をせず、机まで歩み寄ると、その薬瓶をストンと置いた。


「外傷用だ。山査子樹脂を混ぜてある。明日は冷える、放っとくと熱を持って腫れる。」


  エレは一瞬きょとんとし、無意識に手首を引っ込めた。

  まるで秘密を見つかったような、少し落ち着かない動きだった。


  「……なんで、それを?」

  声はか細く、低く押さえられていた。


 サイラスはじっと彼女を見た。夜のように深く静かな視線で、何もかもを見抜くように。

  「昼から左手で草袋を持つ癖に変わった。食事もスプーンを握る手が不自然だった。包帯の巻き方がやけにきつい。」


  彼はゆっくりと言葉を繋げ、淡々と要点を指摘した。


  そして、袖口から覗く薄い傷跡を一瞥し、最後の一言はほとんど囁きのようだった。

  「それに……お前の治癒は、自分には完璧じゃない。」


 エレは息を呑み、言葉を失った。

  このことを知っているのは、リタでさえぼんやり察している程度で、きちんとは話していなかった。

  まさか、サイラスにだけは知られたくなかったのに。

  唇を噛み、視線を落として小さく呟く。


  「……治せないんじゃない。ただ……すごく痛いの。自分の痛みを切り開いて、縫い合わせるみたいで。」


 口にしてしまってから、しまった、と思った。

  そんな風に言えば、きっと彼は「だから来るな」と言う。

  安全な場所に閉じ込めて、どこにも行かせないつもりだ。

  でも――もう、バレてしまった。


 短い沈黙が落ちたあと、エレは自嘲気味に苦笑した。

  「だから隠してたの。私が耐えられないって思われたくなくて。」


 サイラスは答えなかった。ただ、彼女の前にしゃがみこむと、そっとその包帯を取った手首を引き寄せた。

  そして慣れた手つきで布をほどき、傷を確かめながら低く言った。

  「……もう無理するな。」


  その声は小さいのに、まるで命令のように強く聞こえた。

  「本当に限界のとき、俺はお前のそばにいられないかもしれない。」


 エレはぽかんと彼を見つめた。

  サイラスは黙ったまま、薬を取り出して優しく塗り直し、包帯を巻き直していく。

  手つきは熟練していて、けれど驚くほど丁寧で、傷をなるべく刺激しないようにしていた。


  そこには「無理するな」と責める言葉はなかった。

  ただ、無言のうちに滲む優しさがあった。


 包帯を結び終え、彼がふと顔を上げたとき、エレは小さく声を絞った。

  「……あなた、私を戦場に連れて行きたくなかったんじゃないの?」


 サイラスの琥珀色の瞳が、真っ直ぐに彼女を映した。

  「間違ったやり方で残るのは嫌だった。」


  言葉は静かで、少しだけ柔らかかった。

  「今みたいに後方でも医療でも、ちゃんと意味のある場所なら、認める。」


 エレの目がかすかに潤んだ。

  でも彼女は負けたくなくて、少し意地悪そうに笑った。

  「……言い方が、まるで部下にする説明みたいね。」


 サイラスは視線を逸らしかけたが、扉のほうに身体を向ける直前に低く呟いた。

  「……それだけじゃない。」


 それ以上は何も言わずに、立ち上がって扉へ歩き出す。

  取っ手に手をかけ、開けかけて――少しだけ振り返らずに、声を落とした。


  「明日は夜明け前に出る。……あまり遅くまで起きるな。」

 それだけ言い残し、廊下に消えていった。


 エレはぽつんと残され、しばらく呆然と扉を見つめた。

  ごく普通の、なんてことない言葉。

  でも、それは彼なりの気遣いで、彼が覚えていてくれる印だった。


  ――私の手の傷も、夜更かしする癖も、そして明日、同じ戦場へ向かう約束も。


 机の上の薬瓶をそっと指先でなぞりながら、エレは誰にも気づかれないように、小さく微笑んだ。

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