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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
赤獅の焰と孤影

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154/194

(154) 和解の刻

 羊皮紙の端が夜風に揺れ、ふわりとめくれ上がったのを見て、

 サイラスはようやく、微かに笑った。

  その笑みには、呆れたような無力感と、どこか解放されたような諦めが滲んでいた。


「……本当に、参ったよ。」

  声は低く、まるで自嘲するようでもあり、同時に彼女に頭を下げるようでもあった。


 ここ数日、彼の心は張り詰めた弓のようだった。

  戦のこと、部隊の配置、そして彼女のこと。

  何もかもを「部下を指揮するように」管理しようとしていた。


  だが――


  彼女は決して「部下」なんかじゃない。

  エレは、エレだ。


 人を癒す優しさを持ちながら、戦場で自分の立場を勝ち取ろうとする胆力もある。

  それを、やっと思い知った。


 サイラスはゆっくりと地図を畳み、顔を上げた。

  さっきまでの鋭さが少し和らぎ、落ち着いた声で言った。


「あと三日で出発だ。明日から、お前はリタと一緒に赤獅堡へ行け。簡単な訓練を受けてもらう。」


  エレは目を瞬かせ、黙ったまま耳を傾けた。


「後方支援要員として連れて行く形にする。」

 サイラスは一拍置き、視線を鋭く戻した。

  「ただし、行けるのはラセレン要塞までだ。前線に出すかどうかは俺が決める。

  それに――そこにいても、必ずしも俺のそばにいられるとは限らない。」


 彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ、平坦だが揺るぎない声で告げた。


  「だから、まずは自分で自分を守れるようになれ。」


 エレは少し目を伏せたが、すぐに小さく笑った。

  そして軽く首をかしげるようにして言った。


「……あなた、忘れてない?

  私、もともとは街を放浪してたのよ。つい最近まで、ただの旅芸人だった。」


 声は柔らかいのに、芯の通った強さがあった。

  「この程度の苦労で、折れるような私じゃないわ。」


 その目は怨みも恨みもなく、むしろ誇りに満ちていた。

  ――施しじゃない、自分の足で生きてきた人間の誇りだ。


 サイラスはその表情を見て、ふと動きを止めた。

  しばしの沈黙の後、小さく息を吐き、低く呟いた。


「……ああ、忘れてた。」


 そう言うと、彼はテーブルの上のもう一つの菓子を取って、わざとらしく目を逸らすようにして口に運んだ。

  甘みが、舌にじんわりと広がる。

  素朴で、派手さはないけれど、確かに存在する優しさ。

  まるで、彼女そのもののように。


 部屋の隅では、リタが二人の空気をそっと見守っていた。

  さっきまで張り詰めていた緊張が、ゆっくりとほぐれていくのを感じていた。


 サイラスの肩がわずかに落ち着いたことも、

  そしてエレの目に再び戻った、あの芯のある光も。

  それはただの意地ではなく、理解された安心から滲むものだった。


 だからリタは何も言わなかった。

  余計な音を立てないよう、慎重に空になった皿を片付け、

  まるで空気を壊さないように礼をして、静かに後ろへ下がった。


 そして、扉を開ける前に一度だけ振り返り、エレに向けて意味ありげな微笑みを浮かべた。


  「……場はお任せします。」

  そんな言葉を目線で伝えるように。


 エレも視線を返し、わずかに目を伏せて、頬を赤らめた。

  扉が静かに閉まると、室内は二人きりになった。

  ゆらゆらと揺れる燭火が、その空気を優しく包む。

  もう、重苦しさはなかった。


 窓辺に立つエレは、少し視線を落としたまま、言葉を探しているようだった。

  さっきまでの怒りは引き、代わりに迷いが残る。

  そして、少しの間を置いて、小さな声で呟いた。


「……本当は、最初からこうやって話してくれたら、私だってあんなに怒らなかったのに。」

 サイラスは少しだけ眉を上げた。

  彼女が手にしていた温かい飲み物から視線を上げて、からかうように聞いた。


「じゃあ、今日一日無茶な訓練したのは何だ。八つ当たりか?」

  エレは吹き出すように笑い、けれど少し疲れた声で答えた。


「八つ当たりでも、本音だよ。」

  視線を上げ、まっすぐに彼の瞳を見つめる。

  「私は……別に、あなたにくっついて歩きたいわけじゃない。ただ、同じ場所に立ちたかっただけ。

  そうすれば、あなたが振り返ったとき、私はちゃんと隣にいられるでしょう?」


 その言葉に、サイラスは息を呑むように一瞬止まった。

  エレはさらに、そっと言葉を重ねた。


「……いつも、あなたが危険に向かうとき、遠くで待ってるだけなのは嫌だったの。」


 その声は静かで、装飾のない本心だった。

  戦場の恐怖も、貴族の体面もなく、ただ彼を想う気持ちだけがあった。


 サイラスは喉を鳴らし、何かを言おうとして言葉が詰まった。

  結局、深く吐息をつき、テーブルの上の彼女の手に自分の手を重ねた。

  冷たい手のひらで、けれどその力はとても優しかった。


「……あまり、俺を心配させるな。」

  低く、かすれるような声だった。


 エレはその手を握り返し、唇を弧にして微笑んだ。

  「あなたもね。あんまり私を待たせないで。」


 ――この夜、二人はまた一歩、互いに近づいた。

  誰かが折れたのではなく、互いに「残る」ことを選んだ結果として。

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