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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
赤獅の焰と孤影

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153/194

(153) 決断前の対峙

 夜は墨を流したように濃く、銀凰区の街灯が次々と灯りはじめ、柔らかな輪郭を貴族の邸宅に浮かび上がらせる。

  石畳を叩く馬蹄の音が響き渡り、その乾いたリズムは、今宵が決して穏やかには終わらないことを告げていた。


 赤獅堡を発った三人が馬を駆り、邸宅の門前に到着した。

  サイラスは深い色のマントを羽織り、無駄のない動きで馬から降りる。顔に疲労の色はないが、その沈黙は異様なほどに重い。


  彼は手綱をノイッシュに渡し、短く命じた。

  「馬を頼む。」


  そして振り返り、アレックに向かって言った。

  「リタを呼べ。話がしたい。」


  アレックは即座に頷き、邸宅へと小走りで入っていった。



 ――その頃、二階の居間では。

  薄い布幕がわずかに揺れ、蝋燭の炎が小さく踊る。


  静けさに満ちた空間で、エレはバルコニーに面した長椅子に腰かけていた。

  薄いブランケットを肩にかけ、手には開きっぱなしの本を持っていたが、その視線はとうにページを離れ、外の街路を見つめていた。


 かすかに馬蹄の音が聞こえたとき、彼女は思わず首を伸ばすように窓の外を覗き込む。

  ――帰ってきた。

  夜の闇を背景に、あの馴染みのある姿が現れる。

  背筋を伸ばした端正な立ち姿、昼間と変わらぬ冷たく孤高な空気を纏っていた。


 彼を見つけた瞬間、エレの胸は小さく沈んだ。

  本当は、彼は今夜は帰ってこないと思っていた。

  もし戻らなければ、明日の朝には自分から赤獅堡へ赴き、直接話をつけようと覚悟していたのだ。


 そんな思いを巡らせていると、扉の向こうから控えめなノック音が響いた。


  「エレ様、リタです。」

  いつもの穏やかな声。


 エレは視線を落とし、そっと立ち上がってドアを開ける。

  「リタ……どうしたの?」


  「殿下が、お会いになりたいと。」

  その言葉に、エレの目がわずかに揺れる。


  ――やっぱり来た。


  予想していたことなのに、心の準備ができているかはわからなかった。

 視線を逸らし、少し低い声でつぶやく。


  「……きっと、昼間のことを問いただす気なのね。」

  悔しさも、不満も入り混じった声音。


  あれは計画した暴露じゃなかった。ただの突発的な行動だった。

  それでも後悔はしていない。ただ――彼がそれを理解してくれるのか、それがわからない。


 リタはそんな彼女の逡巡を見抜き、静かに促すように言った。

  「お会いしないなら、殿下はずっとご自分のやり方で考え続けますよ。……今回は、殿下が何を言うのか、ちゃんと聞いてみては。」


  エレは唇を噛み、やがて小さく頷いた。


  「……じゃあ、ここに来てもらって。」

  小さな声で決意を告げる。


  「居間に通して。」

 そしてふと、テーブルの上を見やって、ためらいがちに続けた。

  「……夕食を取ったかわからないし、菓子と酒を用意してくれる?」


  リタは微笑んで、控えめに礼を取った。

  「かしこまりました。」


 扉が再び閉まると、エレは窓際に立ち、深く息を吸った。

  胸の奥では期待と不安、言葉にできない問いがせめぎ合っていた。

  彼が今夜、どんなふうに話すのか。

  またあの冷たい声で、自分を引き留めようとするのか。


 でも――

  今回はもう、あの安全で従順な場所に戻るつもりはない。


 ――待ってるわ。

  今度こそ、あなたが私の決意にどう応えるのかを。


 サイラスは軽く身なりを整えた後、手に折りたたんだ羊皮紙を握りしめたまま、邸宅の二階へと歩を進めた。

  歩調は一定で落ち着いているように見えたが、本人にもわかっていた。

  ――この羊皮紙が、指先でわずかに皺になっていることに。


 起居室の前に立つと、リタが暖炉脇の小さなテーブルを片付けているところだった。

  彼女はすぐに軽く会釈して告げた。

  「殿下、エレ様がお待ちです。」


  サイラスは小さく頷き、そのまま扉を開けた。


 部屋の中は、柔らかな黄色の灯りが穏やかに揺れていた。

  窓辺に立つエレは、薄いブランケットを羽織ったまま、こちらを振り返る。

  その表情は静かで、それでいてわずかに警戒と冷たさを帯びていた。

  二人の視線がぶつかった瞬間、空気が張り詰めたように止まった。


 サイラスは数歩近づき、彼女の隣のテーブルで足を止めた。

  気まずい沈黙が落ちる。

  彼は彼女を一瞥し、そして小さく無言で吐息を漏らした。


「争いに来たわけじゃない。」

  そう言いながら、手にしていた羊皮紙をテーブルの上に広げた。

  「これは帝都からラセレン要塞までのルートだ。」


  羊皮紙には、三本の主要な進軍経路が描かれ、補給地点や地形の障害まで細かく記されていた。


 エレは眉をひそめ、苛立ちを滲ませて遮った。

  「……どうしてそんなの、私に見せるの?」


  サイラスはすぐには答えず、真っ直ぐに彼女を見据え、淡々と言った。

  「それが知りたいんだろう? 一緒に来たいと言ったじゃないか。」


 エレはわずかに目を見開き、鼓動が一拍早まるのを感じた。


  思わず問い返す。

  「……じゃあ、連れていく気になったの?」


  だがサイラスは首を横に振り、その表情は冷酷なほどに落ち着いていた。


  「違う。」


  指先で地図を指し示し、声は冷たく硬かった。

  「今ここでお前にわかってほしい。戦争は気まぐれな旅行でも、誰かに証明するための芝居でもない。」


  「一歩一歩に潜む危険、地形、補給、遅延、奇襲、死傷者――全部を受け入れる覚悟がいる。」


 彼はそのまま視線を外さず、声を低く落とした。

  「これは“並んで歩く”だけのロマンじゃない。毎日、人が目の前で死ぬ戦争だ。」


  「お前には耐えられない。」


 その言葉を聞いた瞬間、エレの指先が小さく震えた。

  顔に浮かぶ感情は、驚愕から怒りへと変わった。

  唇を固く噛みしめ、目には悔しさと怒気がにじんだ――が、その口を開く前に、


  ノック音が響き、リタがそっと部屋に入ってきた。


「準備ができました。」

  そう言って、小さな木のトレイをテーブルに置く。


  にこやかに補足する声が続いた。

  「エレ様がご自身で作られたお菓子です。殿下に召し上がっていただきたいと。」


 サイラスは一瞬眉をわずかに動かし、トレイを見下ろした。

  素朴な色合いの小さなビスケットや団子のようなものがいくつか並ぶ。

  見た目は飾り気がなく、やや不格好ですらあったが、どこかほのかな香りが漂った。


「これは……何だ?」

  低く問うと、リタは笑みを深めて説明した。


  「オートミールとドライフルーツのビスケット、ナッツと蜂蜜の団子です。

  オートミールを柔らかく煮て蜂蜜や果物を混ぜ、型にして炉端でゆっくり乾かしました。ナッツは砕いて蜂蜜とオートミールで練り、軽く焼き固めています。」


 サイラスは小さく間を置いた。

  目が僅かに揺れる。

  「……彼女が、作ったのか。」


  リタは静かに頷いた。

  「ええ。半日かけて試行錯誤して、やっと納得いくものができたそうです。」


 サイラスは数秒黙り込み、その素朴な菓子を見つめたまま手を伸ばす。

  一つ取ると、表面は少し固く、端がわずかに焦げていた。明らかに洗練されていない手作りだった。

  だが噛むと、蜂蜜と果物の素朴な甘みが、思いのほか温かく胸に広がった。


 向かい側のエレは、疲れた顔で、それでも引かぬ強情な目をして見返してくる。

  口を開くことはなくても、そこにある決意は明らかだった。


 サイラスはそんな彼女を見つめ、一瞬、言葉を失った。

  説得して諦めさせるつもりだったのに。

  目の前の彼女は、昼間よりもずっと強く、確かに立っていた。


 ――一緒に行く、ただの道連れなんかじゃない。

  彼女はもう、自分の意志で、この戦いに踏み込んでいたのだ。

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