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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
赤獅の焰と孤影

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152/194

(152) 制御できない衝動

  夜が深まるにつれ、赤獅堡の冷たい風が石造りの窓の隙間から忍び込み、室内の蝋燭の炎をかすかに揺らした。


  サイラスは執務室の扉を押し開け、静かに中へ入る。

  微かな明かりだけが机を照らし、彼はマントを無造作に椅子の背に放った。


 部屋は静まり返っていた。

  聞こえるのは自分の足音と、外を吹く弱い風の音だけ。

  机まで歩み寄り、積み重なった作戦報告書を見下ろす。

  だが、今はそれすらもひどく煩わしかった。


 脳裏から消えない。

  あのエレの、負けん気に満ちた瞳。

  「これが私の価値」と言い切った時の、あのわずかに笑う口元。


  彼女はいつもそうだ。

  いつも……いつも、彼の手の届かないところで勝手に決める。


 そういうのが、嫌だった。

  あの日、自分の制止を振り切って帝都へ使者を出しに行った時も。


  今日、治癒の力を公然と見せつけた時も。

  どれも彼が用意した「安全な範囲」を平気で越えていく。

  計画を、コントロールを、ことごとく台無しにする。


 サイラスの指先が机の上でわずかに丸まる。

  呼吸が、無意識に深く荒くなる。


  ――わかっているのか、あいつは。


 指先がびくりと痙攣する。

  左目の奥に鈍い痛みがじわりと広がった。

  それが何かの暗示のように、胸の奥を苛立ちと焦燥で満たしていく。


  落ち着け、と理性が命じた。

  だが、体が先に動く。


 腰のあたりを探るように、震える指が伸びたそのとき――

  視線が机の上に落ちた。


 そこには、ひと振りの短剣があった。

  ヴェロニカが置いていった銀色の短剣。

  冷たく光る刃が、蝋燭の炎を反射して鋭利な輝きを放つ。


 一瞬、息が止まった。

  手が勝手に伸びる。


  刃の冷たさを指先で感じ、ゆっくりと撫でるように確かめた。

  その感触は――鋭く、冷たく、切り裂く痛みを記憶させるもの。


 サイラスは左袖を乱暴に捲り上げた。

  白く薄い古傷が何本も、時の流れで色褪せた線を描く。

  その間に、新しく浅い傷跡が赤く浮き上がっていた。

  縁はまだ粗く、不器用な癒え方をしている。


 短剣の切っ先が、その皮膚に触れた。

  わずかに押し当てる。

  刺すような痛みを期待していた。

  その痛みで心をリセットし、胸を満たす苛立ちを切り落としたかった。

  それが、ずっと彼がやってきた方法だった。


 だが――

  刃が皮膚を切り裂こうとしたその瞬間、指が止まった。


  視線が、自分の腕に走る無数の線を捉えた。

  古びた白い傷と、まだ若い赤い傷。

  それらが重なって、己の弱さを晒していた。


 サイラスは深く息を吐く。

  ゆっくりと、だが確実に、その衝動を押し殺した。

  そして、手の中の短剣を握りしめ――


 鋭い音を立てて、机の上に叩きつけた。

  金属音が重く響き、部屋の空気を震わせた。


  再び、静寂が戻る。

  聞こえるのは自分の荒い呼吸だけ。


 サイラスは目を閉じ、眉間を押さえた。

  波打つ感情を必死で抑え込む。

  その瞼の裏には、あの女の姿が焼き付いて離れない。


  ――エレ、お前は一体どれだけ俺を、狂わせるつもりだ。


 扉の向こうから、落ち着いていながらも鋭さを帯びた声が響いた。


  「……やらなかったんだね。」

 その声に、サイラスの動きがわずかに止まる。


  ゆっくりと手を下ろした。

  視線は上げなかったが、誰が来たのかはわかっていた。


 ヴェロニカだ。


  驚きも呆れもない、むしろ最初から知っていたような口調。

  まるで……彼女自身の“仕掛け”であるかのように。


 サイラスの目は机上の短剣に落ちた。

  銀色の刃は蝋燭の光を受けて冷たく輝いている。


「……つまり、これはお前の“仕掛け”か。」

声は低く、疲れ切ったような自嘲が滲んでいた。


「仕掛けなんかじゃないわ。」

  ヴェロニカは部屋に入りながら淡々と答える。

  「ただ、確認しておきたかっただけ。今のお前の“限界”を。」


 サイラスはようやく顔を上げた。

  その瞳には読みにくい陰りが漂っていた。


「ずいぶんと、気にかけてくれるんだな。ヴェロニカ。」

  口元にかすかな笑みを刻むが、そこに笑意はなかった。


 ヴェロニカは否定も肯定もせず、ただ机の端に歩み寄ると、短剣を手に取った。

  指先が刃をゆっくりとなぞり、その感触を確かめる。


「久しぶりなんでしょ、こういうの。」

  淡々とした口調が返って痛烈だった。

  「でも、今日は……ほとんど戻りかけてた。」


 サイラスは応えなかった。

  否定できなかった。

  それは事実だった。


  ずっと抑え込んでいたはずのもの。

  もう必要ないと思っていたはずの衝動。

  それが、今日また顔を出した。


「……あの女が原因?」

  ヴェロニカの声は低く、感情を読ませない。


 サイラスは視線を落とし、短剣を睨むように見つめた。

  指先が微かに震えたが、答えはなかった。


 そのとき、不意にヴェロニカが距離を詰め、彼の左前腕をつかんだ。

  指先が、そこに刻まれた新しい浅い傷跡を正確に探り当てる。

  ざらついた感触。


「……この前、あの店で見せたのは右手だったはず。」

  声は静かだが、鋭さを隠さない。

  「でも、今も切ってるのはこっちなんだ。」


 サイラスの瞳孔がわずかに縮んだ。

  反射的に彼女の手を振り払う。

  力は強くなかったが、その動きには本能的な拒絶があった。


 ヴェロニカはじっと彼を見つめた。

  口元にかすかな、だが意味深な笑みを浮かべる。

  まるで、全てを見透かしたように。


「お前が思ってる以上に、あの女の影響は大きい。」

  責める調子ではなく、ただの事実として告げられたその言葉。


 サイラスは黙ったまま、視線をそらすように腕を引いた。

  その目は深い陰を落としていた。

  もう話を続ける気がないことを示すように。


 ヴェロニカも追及しなかった。

  むしろ、そうなることを初めからわかっていたかのように。

  軽く短剣を収め直し、踵を返す。


「……早めに帰って、ちゃんと話してやりなさい。」

  言い捨てる声は平坦だったが、その一言は鋭く彼の胸を抉った。


 扉がゆっくりと閉じる音が響く。

  微かな風が揺らす蝋燭の光に照らされ、

  サイラスは一人、沈黙したまま立ち尽くしていた。

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