表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
赤獅の焰と孤影

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

151/194

(151) 示すの決意

 赤獅堡の空気はいつも通り冷たく、午後の陽光が城壁の縁を越えて訓練場を照らし、冷たい石畳にわずかな温もりを落としていた。

  だが、つい先ほど、その静かな軍事要塞を切り裂くように、突然のざわめきが響いた。


 その声は、執務室にいたサイラスの耳にも届いた。

  冷淡な表情で軍報告をめくっていた彼の指が、わずかに止まる。

  そして窓の外に視線をやった瞬間――


 アレックが勢いよく扉を開けて入ってきた。

  その顔はあまり良くない色をしていた。


  「殿下!」

  声には切迫した響きがあった。


 サイラスの眉が僅かに寄る。問いかける前に、もう手は勝手にマントを肩に引っ掛けていた。

  そして足早に歩き出す。


  「何があった?」

  その声は冷静だったが、どこか苛立ちが滲んでいた。


 アレックが後ろをついてきながら、低い声で告げる。

  「……エレ様が、訓練場で治癒の力を使いました。」


 サイラスの足が止まった。

  冷ややかな琥珀色の瞳が、ほんの一瞬だけ本物の動揺を宿す。

  だが次の瞬間、その視線は鋭くなり、歩みを再開すると、今度はほとんど駆けるように訓練場へ向かった。


 サイラスが到着した時、まず目に入ったのは中央に集まった騎士たちの人だかりだった。

  彼らは一様に驚きと畏怖を浮かべ、声をひそめながらもざわざわと動揺していた。


「……何だ、あれは……」

  「本物か……?」

  「幻術なんかじゃない……」


 サイラスの表情がみるみる険しくなる。

  そしてゆっくりと人垣へ近づくと、その威圧感に気づいた騎士たちが一斉に道を開けた。

  誰もが息を呑み、礼を取る。


 その視線の先――

  エレは負傷した騎士の隣に膝をつき、手のひらを傷口に軽く当てていた。

  元は血が滴っていた腕が、目に見える速さで血の流れを止め、傷口がじわじわと閉じていく。

  まるで温かく強い力が組織をつなぎ直しているようだった。


 周りの騎士たちは言葉を失い、ただ呆然と見つめる。

  エレは呼吸を少し乱し、額に薄い汗を滲ませながらも、最後まで集中を切らさずにいた。

  傷が塞がり、血が止まったのを確認すると、そっと手を離した。

  治療された騎士は震える手で自分の腕を見つめ、信じられないという表情を浮かべた。


「……これが……」

 だが、その空気を裂くように低い声が響いた。


  「エレ。」

  その声は大声ではなかったが、絶対の威圧を伴っていた。


 エレの肩がわずかに揺れる。

  顔を上げると、視線の先に立っていたのはサイラスだった。

  琥珀色の瞳には抑えきれない怒気が潜み、ただ冷たく鋭く光っていた。


 騎士たちは空気を察して一歩下がり、周囲に空間が開いた。


  サイラスはゆっくりと歩み寄り、冷たい声で問いかけた。

  「なぜこんなことをした。」


 エレは少し唇を噛んだが、すぐに視線を上げた。

  心臓が早鐘のように打つ。


  だが、不思議と逃げたいとは思わなかった。

  むしろ、その瞳を見つめ返し、わずかに微笑んだ。


「これが、私の価値だから。」

  その声は震えていなかった。

  「これが、私が戦場でできること。」


 サイラスの瞳が一瞬だけ揺れる。

  しかし、次に発せられた声はさらに低く、冷たかった。

  「俺は、使うなと言ったはずだ。」


 エレは深く息を吸い、ゆっくりと立ち上がる。

  視線を外さないまま、はっきりと言った。

  「それで人を救えるなら、どうして隠さなきゃいけないの?」

  「なぜ使っちゃいけないの?」


「お前のその力は、人を驚かせるだけじゃない。」

  サイラスは声を落とした。

  「恐怖を生む。疑念を呼ぶ。戦場はそういう場所だ。」


「だからって……」

  エレは拳を握りしめた。

  「だからって何もしないでいるなんて、私は嫌!」

  「人が死ぬのを黙って見ていろっていうの?」


 サイラスの目が細くなる。

  「エレ、お前は自分が何をやったのかわかってるのか?」


  その声は低く抑えられていたが、憤怒が滲み出ていた。

  「これは遊びじゃない。自己証明の場じゃない。」


「わかってる!」

  エレは大きく息を吐いた。

  「だから、やるの。」


 二人は正面から睨み合った。

  その空気は張り詰め、周りの騎士たちは誰一人声を出せなかった。


 ――だが、この瞬間サイラスは悟った。

  もうエレは引かない。

  彼女は自分で戦場における価値を見つけた。

  そして、これは許可を求めるためではなく、決意を告げるための行動だった。


 しばらく睨み合った後、サイラスはゆっくりと顔を背けた。

  深く息をつく。


  「……アレック、彼女を下がらせろ。今夜、俺が話す。」


 エレの唇が震えた。何か言いかけたが、サイラスはもう背を向けていた。

  手が無意識に強く握られ、唇を噛む。

  もう何を言っても無駄だと悟ったからだ。


 視線を横に流すと、訓練場の陰に立つヴェロニカが静かにこちらを見ていた。

  エレは視線を戻し、アレックに促されてその場を去った。


  最後に一度だけ振り返ったが――

  サイラスは振り返らなかった。


 二人はそのまま、まるで決定的な距離を置くように別の方向へと歩き出した。

  まるで運命が交差し、そしてまた離れていくように。


 サイラスは数歩歩くと、突然眉を寄せた。

  左目の奥に、わずかな痛みが走った。

  ゆっくりと目元を押さえ、低く息を吐く。

  その痛みは決して鋭いものではなく、だが深く古い何かを呼び覚ますようだった。


 けれど今、それを気にしている暇はなかった。

  手を離し、視線を上げると、再び前へと歩みを進めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ