(151) 示すの決意
赤獅堡の空気はいつも通り冷たく、午後の陽光が城壁の縁を越えて訓練場を照らし、冷たい石畳にわずかな温もりを落としていた。
だが、つい先ほど、その静かな軍事要塞を切り裂くように、突然のざわめきが響いた。
その声は、執務室にいたサイラスの耳にも届いた。
冷淡な表情で軍報告をめくっていた彼の指が、わずかに止まる。
そして窓の外に視線をやった瞬間――
アレックが勢いよく扉を開けて入ってきた。
その顔はあまり良くない色をしていた。
「殿下!」
声には切迫した響きがあった。
サイラスの眉が僅かに寄る。問いかける前に、もう手は勝手にマントを肩に引っ掛けていた。
そして足早に歩き出す。
「何があった?」
その声は冷静だったが、どこか苛立ちが滲んでいた。
アレックが後ろをついてきながら、低い声で告げる。
「……エレ様が、訓練場で治癒の力を使いました。」
サイラスの足が止まった。
冷ややかな琥珀色の瞳が、ほんの一瞬だけ本物の動揺を宿す。
だが次の瞬間、その視線は鋭くなり、歩みを再開すると、今度はほとんど駆けるように訓練場へ向かった。
サイラスが到着した時、まず目に入ったのは中央に集まった騎士たちの人だかりだった。
彼らは一様に驚きと畏怖を浮かべ、声をひそめながらもざわざわと動揺していた。
「……何だ、あれは……」
「本物か……?」
「幻術なんかじゃない……」
サイラスの表情がみるみる険しくなる。
そしてゆっくりと人垣へ近づくと、その威圧感に気づいた騎士たちが一斉に道を開けた。
誰もが息を呑み、礼を取る。
その視線の先――
エレは負傷した騎士の隣に膝をつき、手のひらを傷口に軽く当てていた。
元は血が滴っていた腕が、目に見える速さで血の流れを止め、傷口がじわじわと閉じていく。
まるで温かく強い力が組織をつなぎ直しているようだった。
周りの騎士たちは言葉を失い、ただ呆然と見つめる。
エレは呼吸を少し乱し、額に薄い汗を滲ませながらも、最後まで集中を切らさずにいた。
傷が塞がり、血が止まったのを確認すると、そっと手を離した。
治療された騎士は震える手で自分の腕を見つめ、信じられないという表情を浮かべた。
「……これが……」
だが、その空気を裂くように低い声が響いた。
「エレ。」
その声は大声ではなかったが、絶対の威圧を伴っていた。
エレの肩がわずかに揺れる。
顔を上げると、視線の先に立っていたのはサイラスだった。
琥珀色の瞳には抑えきれない怒気が潜み、ただ冷たく鋭く光っていた。
騎士たちは空気を察して一歩下がり、周囲に空間が開いた。
サイラスはゆっくりと歩み寄り、冷たい声で問いかけた。
「なぜこんなことをした。」
エレは少し唇を噛んだが、すぐに視線を上げた。
心臓が早鐘のように打つ。
だが、不思議と逃げたいとは思わなかった。
むしろ、その瞳を見つめ返し、わずかに微笑んだ。
「これが、私の価値だから。」
その声は震えていなかった。
「これが、私が戦場でできること。」
サイラスの瞳が一瞬だけ揺れる。
しかし、次に発せられた声はさらに低く、冷たかった。
「俺は、使うなと言ったはずだ。」
エレは深く息を吸い、ゆっくりと立ち上がる。
視線を外さないまま、はっきりと言った。
「それで人を救えるなら、どうして隠さなきゃいけないの?」
「なぜ使っちゃいけないの?」
「お前のその力は、人を驚かせるだけじゃない。」
サイラスは声を落とした。
「恐怖を生む。疑念を呼ぶ。戦場はそういう場所だ。」
「だからって……」
エレは拳を握りしめた。
「だからって何もしないでいるなんて、私は嫌!」
「人が死ぬのを黙って見ていろっていうの?」
サイラスの目が細くなる。
「エレ、お前は自分が何をやったのかわかってるのか?」
その声は低く抑えられていたが、憤怒が滲み出ていた。
「これは遊びじゃない。自己証明の場じゃない。」
「わかってる!」
エレは大きく息を吐いた。
「だから、やるの。」
二人は正面から睨み合った。
その空気は張り詰め、周りの騎士たちは誰一人声を出せなかった。
――だが、この瞬間サイラスは悟った。
もうエレは引かない。
彼女は自分で戦場における価値を見つけた。
そして、これは許可を求めるためではなく、決意を告げるための行動だった。
しばらく睨み合った後、サイラスはゆっくりと顔を背けた。
深く息をつく。
「……アレック、彼女を下がらせろ。今夜、俺が話す。」
エレの唇が震えた。何か言いかけたが、サイラスはもう背を向けていた。
手が無意識に強く握られ、唇を噛む。
もう何を言っても無駄だと悟ったからだ。
視線を横に流すと、訓練場の陰に立つヴェロニカが静かにこちらを見ていた。
エレは視線を戻し、アレックに促されてその場を去った。
最後に一度だけ振り返ったが――
サイラスは振り返らなかった。
二人はそのまま、まるで決定的な距離を置くように別の方向へと歩き出した。
まるで運命が交差し、そしてまた離れていくように。
サイラスは数歩歩くと、突然眉を寄せた。
左目の奥に、わずかな痛みが走った。
ゆっくりと目元を押さえ、低く息を吐く。
その痛みは決して鋭いものではなく、だが深く古い何かを呼び覚ますようだった。
けれど今、それを気にしている暇はなかった。
手を離し、視線を上げると、再び前へと歩みを進めた。




