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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
隠された探り合い

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(15) 街角の邂逅

 朝の陽光が石畳を照らし、ブレストの市場はすでに活気に満ちていた。

 商人たちの威勢のいい呼び声、人々の交わす賑やかな会話——

 この国境の街は、まるで生き物のようにざわめいていた。


 エレはそっと肩に掛けたマントを引き寄せ、目立たぬように顔を伏せながら人波をすり抜けていく。


 今日、彼女はリタと別行動を取っていた。


 リタは相変わらず街のあちこちで働いている。

 少しでも旅費を稼ぎ、できるだけ早くこの街を出て帝都へ向かおうと、彼女なりに必死なのだ。


 ——だが、エレはすべての望みをそれに託すつもりはなかった。


 確実な保証が必要だった。

 もっと多くの情報が。


 だからこそ、彼女は単独で市場へと足を運んでいた。

 街の様子を探ると同時に、生活必需品を買い揃えるために。


 ブレストは辺境の街とはいえ、交易の要所でもある。

 各地の商隊や冒険者、旅人が頻繁に行き交い、市場には帝都から運ばれた品々さえ並んでいた。


 エレは通り沿いの露店を静かに眺めながら、人々の顔ぶれを慎重に観察する。


 ——帝都へ向かう商人、あるいは信頼できる伝令役。

 彼女が探しているのは、そういう人間だった。


 しかし、この混沌とした環境の中で、焦って動けばかえって目をつけられる。


 慎重に、慎重に。

 それが、今の彼女に求められることだった。


 エレは顔を上げ、前方を見据える。

 市場の喧騒の中で、目を引く人物を見つけようとしていた——


 だが、その瞬間——


「危ない!」

 誰かの声が響く。


 エレが反応するよりも早く、木製の棚に無造作に積まれていた木材が、バランスを崩して倒れかかってきた。


 とっさに後ろへ下がろうとしたが、背後には人混み。

 思うように身動きが取れない——


「——!」

 木材が彼女の頭上に落ちる寸前——


 一瞬の閃きとともに、すっと伸びた手が木材を支え、ぐらついていた棚をしっかりと安定させた。


 エレは一瞬、呆然と立ち尽くす。

 そして、ゆっくりと視線を横へ向けた。

 そこに立っていたのは——


「……またあなた?」

 わずかに警戒をにじませた声が、思わず口をついて出た。


 目の前の男は、軽やかな黒の外套を纏い、わずかに開いた襟元から琥珀色のペンダントが覗く。

 左耳には、朝日に照らされて仄かに輝く月長石のピアス——


 彼は、うっすらと微笑みながら、ゆっくりと彼女を見下ろす。

「なんだ、そんなに俺に会えて嬉しくないのか?」


 カイン・ブレスト。


 その名が脳裏に浮かんだ瞬間、エレの胸に得体の知れない警戒心が広がる。


 ——どうして、この人がここに?


 しかし、次の瞬間、自分の口調があまりに無遠慮だったことに気づく。

 相手は貴族。こんな態度は決して礼儀正しいとは言えない。


 エレはすぐに表情を整え、静かに一礼する。


「無礼をお許しください、カイン様。先ほどは助けていただき、ありがとうございます。」

 彼女の姿勢に、カインは微かに眉を上げる。


 そして——

 唇に浮かんだ笑みが、さらに深まった。


「礼には及ばないさ。」

 カインは気だるげな口調で答える。


 琥珀色の瞳には、どこか戯れるような色が滲んでいた。

「それに……どうやら俺の名前、覚えていてくれたみたいだな?」


 エレのまつげが、かすかに揺れる。

 ほんの一瞬の間を置いてから、彼女は淡々とした口調で答えた。


「カイン様はブレスト領主のご子息。この町の貴族の名を知らない者など、おりません。」

 その声音は、丁寧ではあるが、それ以上の感情は感じられない。


 だが——

 カインは、その何気ない言葉を静かに観察していた。


「……そうか?」

 小さく笑みを零し、視線をふと下げる。


 いまだ木材の上に置かれていた手を離し、無造作に袖口の埃を払うと、何気なく言った。

「だが、その割には、俺を恐れているようにも、敬っているようにも見えないんだが?」


 エレの指先が、わずかに緊張する。

 だが、それを気取らせることなく、彼女は表情を崩さずに微笑んだ。


「カイン様、からかわないでくださいませ。」


 穏やかに微笑みながら、一歩後ろへと退く。

 深く一礼しながら、静かに言葉を紡ぐ。


「本日のご厚意、誠に感謝いたします。もし他に御用がなければ——これにて、失礼いたします。」


 彼女の声音は、礼儀正しく、隙がない。


 これ以上、この男と長く関わるのは得策ではない。

 一刻も早く、その場を離れるべき——


 だが、その瞬間——


「そんなに急いで、どこへ行く?」

 低く響く声が、背後から降り注ぐ。


 エレは足を止めた。

 ゆっくりと振り返る。

 カインが、静かにこちらを見ていた。


 彼の琥珀の瞳が、僅かに細められ——

 そこには、底の知れない微笑が浮かんでいた。


 カインは肩をすくめ、気だるげな笑みを浮かべた。


「せっかくの縁だ。俺が案内してやろうか?」

「地方貴族としての務めってやつさ。」


 まるで気まぐれに思いついたかのような声音。

 けれど、その琥珀色の瞳には、僅かな探るような色が滲んでいた。


 エレはわずかに眉を上げ、唇に淡い笑みを宿す。


「貴族の務めがそんなに気楽なものだったとは、知りませんでしたわ。」

 カインは彼女の反応を楽しむように、微かに笑い、

「そうは言うが、悪くない提案だろ?」

 ふっと身を傾け、ゆるやかな口調で続ける。


「ブレストの街は決して入り組んでいない。だが、外の人間には見えにくい場所もある。」

「俺が案内すれば、迷うことはない。」


 エレは静かに彼を見つめた。

「……貴族の務め、とは、舞姫を街に案内することなのですか?」


「少し珍しい話ですね。」

 その声音は柔らかいが、微かな試すような響きを孕んでいた。


 カインの唇が僅かに吊り上がる。

「確かに、普通ではないな。」


 彼はゆるやかに首を傾け、彼女を見下ろしながら低く囁く。

「だが……俺の意図は、わかっているだろう?」


 エレの指先が、披風の端をそっと握る。


 もちろん、わかっている。


 この男が、何の目的もなくこんな誘いをするはずがない。

「貴族の務め」——そんなのはただの建前。

 本当の目的は、彼女を試すこと。


 けれど、それならば——


 彼女にも、考えがあった。


 不用意に拒めば、かえって不審がられる。

 そして何より、彼の真意を探る好機でもある。


「——では、せっかくのお誘いですし。」


「ありがたく、ご一緒させていただきますわ。」

 エレは優雅に微笑み、ゆるやかに頷いた。


 カインの唇が微かに持ち上がり、

「そうこなくちゃ。」


 彼は手を軽く振り、示すような仕草をする。

「さあ、行こうか。」


 エレは静かに歩を進め、彼の隣へと並ぶ。


 そうして——

 ブレストの街並みへと、二人の影が溶け込んでいく。


 見た目は、ただ貴族と舞姫が連れ立って歩いているだけ。

 けれど、その歩みの裏には、互いに交わされる無言の探り合いがあった。


 これは、ただの散策ではない。


 これは、試す者と試される者の、最初の一手。

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