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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
赤獅の焰と孤影

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148/194

(148) 貫く訓練の刻

 訓練場の外、サイラスはヴェロニカと並んで立ち、アレックとノイッシュがその後ろに控えていた。

  サイラスの視線は訓練場の中央に向けられていた——明らかに周囲とは違う、その小柄な姿に。


 エレは女性用の軍服を着ていた。サイズは何とか合っていたが、袖口や腰回りは少し緩く、束ねた銀白色の長髪が走るたびに乱れがちだった。

  彼女は騎士たちの隊列の一番後ろを走っていた。

  その歩調は歴戦の兵たちのように整っておらず、息も上がり気味で、時折ふらつく様子さえ見えた。

  それでも——決して止まらず、文句も言わず、ただ必死に食らいつくように隊列についていく。


 サイラスは最初、眉をひそめた。

  だが次の瞬間、思わず小さく笑ってしまった。

  「……これはどういうつもりだ?」

  声は複雑で、呆れを含みつつも、抑えきれない微かな感情が滲んでいた。


 後ろに立つアレックとノイッシュが背筋を伸ばし、視線を交わす。

  やがてアレックが先に口を開いた。

  「……止められなかったんです。」

  その声には諦めに似た無力感があった。


「どう説得しても無駄でした。」

 ノイッシュも続ける。彼の方が正直でストレートだった。


 サイラスの声がわずかに上ずる。

  「だからって訓練に参加させたのか?」


「止められるなら止めてたさ。」

  アレックは肩をすくめてため息をついた。

  「どれだけ大変か説明して、怪我する危険も警告した。でも彼女は聞かなかった。」


「訓練させないなら、自分で軍に紛れ込むって言い張ったんだ。」

 ノイッシュは苦笑混じりに付け加えた。

  「だったら正面から参加させた方がマシだって、俺たちで判断した。」


 サイラスはしばし黙ったまま、再びエレを見つめた。

  彼女の走りは不格好だった。

  息は荒く、足取りは重い。だが一歩も遅れまいと必死に走っていた。

  その姿を見て、本来なら怒りを覚えるべきだった。

  ——戦場は甘くない。

  彼女のような素人が踏み込む場所ではない。


 だが、今。

  その小さな背中を見つめる自分の心は、どうしようもなく痛んでいた。

  可笑しくて、情けなくて、そして少しだけ愛おしかった。


「……全く、面倒な女だ。」

  低く呟いた声は、呆れとも、優しさともつかない曖昧な響きを帯びていた。


 ヴェロニカはそんな彼の横顔をちらりと見て、再び前を向いた。

  「どれくらい持つと思う?」

  淡々とした声で問う。


「それが問題だ。」

  サイラスは小さく息を吐いた。

  「訓練なんて受けたこともない。戦場なんか向いていない。……何を証明したいんだか。」


 アレックが低く呟いた。

  「……多分、『一緒に行ける』ってことを証明したいんじゃないですか。」


 サイラスはわずかに目を見開き、アレックを見やった。

  アレックは冗談めかすこともなく、ただ当たり前のように言った。

  「エレ様は、待つだけの人じゃないでしょう。置いていかれるくらいなら、自分から同じ舞台に立とうとする。殿下が連れていかないなら、せめてその資格を自分で作ろうとするはずです。」


 サイラスは沈黙した。

  痛いほどわかっていた。

  彼女はそういう女だ。

  何もかも投げ捨てて帝都に来た時から、結末は決まっていたのかもしれない。

  一人で待つくらいなら、一緒に地獄に来る。

  それが彼女だ。


「……馬鹿な女だ。」

  声は小さく、押し殺したようだった。

  ヴェロニカは横目でサイラスを見たが、何も言わなかった。


 訓練場では、エレがまだ走っていた。

  息は乱れ、足元も危うい。

  だが決して止まらなかった。


 サイラスは腰に手を置いたまま、指先で小さくリズムを打つようにしてから低く命じた。

  「教官に伝えろ。特別扱いはするな。ただし、彼女を見張っておけ。」


「……それはさすがに厳しくないか?」

 ノイッシュが戸惑いを見せた。


「甘やかすわけにはいかない。」

  サイラスの声は冷静だった。

  「同じ場所に立ちたいなら、それなりの覚悟を示させる。」


 そう言いながらも、彼の目はずっと訓練場に釘付けだった。

  その小さな影を、決して見逃さないように。




 赤獅堡の軍用食堂は、粗野な雰囲気に満ちていた。

  長い木のテーブルの上で、騎士たちは重たい黒パンや素焼きの器を手に、大口を開けて食事をかき込む。

  談笑、食器のぶつかる音、笑い声や怒声が飛び交い、活気にあふれていた。


 しかし、その喧噪の中で、ひとつの席だけが明らかに浮いていた。


 エレは壁際の席に座り、じっと目の前の皿を見つめていた。

  黒パン、少量の干し肉、湯気の立つ野菜スープ——それが今日の食事だった。


 本当に、体が限界だった。

  早朝の訓練は、彼女の体力をほとんど絞り尽くした。

  長距離の走り込みで脚は鉛のように重く、呼吸もまだ痛むように浅く乱れていた。

  スプーンを持つ手さえ震え、力が入らなかった。


 そして、これがたった初日。

  明日も、明後日も、この先ずっと、もっと厳しい訓練が待っている。

  ——本当に最後まで耐えられるのだろうか?

  考えたくなかった。

  誰も答えをくれはしない。自分で証明するしかなかった。


 彼女は震える指でスプーンを握り、スープをかき混ぜた。

  だが、なかなか口に運べない。


 少し離れた席では、騎士たちが別に気にするふうもなく談笑し、食事を続けていた。

  だが、彼女の周囲との間には確かに見えない壁があった。

  ——自分は、ここに属していない。


 スープを見下ろすと、刻んだ人参や玉ねぎ、青菜の香りが湯気とともに立ち上る。

  疲れ切った体はむしろ食欲を奪い、温かいスープですら胃が重くなるようだった。

  それでも、食べなければならない。

  歯を食いしばり、無理やりスプーンを口元へ持っていこうとしたが、途中で止まった。


 ……自分は、甘いんだろうか?


  サイラスは一度だって自分を戦争に連れていくとは言わなかった。

  計画に彼女の居場所はない。

  軍服を着たから、訓練に参加したからといって、この軍の一員になれるわけじゃない。

  その現実が、痛いほど分かっていた。


 自分の努力は、本当に何かを変えられるのだろうか。


 エレは小さくため息をつき、結局スープを飲み込んだ。


  温かさが喉を通り、わずかに体を温めたが、胸の奥に巣食う冷たさを追い払うことはできなかった。

  ——あとどれだけ持つだろうか。


  分からない。でも、立ち止まるつもりはなかった。

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