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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
赤獅の焰と孤影

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(146) 待つ戦の刻

 数日後。


 朝の冷気はまだ鋭く、銀凰区に立ち並ぶ貴族の邸宅は淡い霧に包まれていた。

  空気にはひんやりとした湿り気があり、庭の石畳や塀を這う常緑の蔦には霜が降りて、銀白色の冷たい輝きを宿している。


 窓辺の薄い布幕が風にそよぐ中、エレは手に微かに温もりを残した紅茶を持っていた。

  カップの縁越しに、外の敷石をじっと見つめ、その白みがかった石の模様を目で追っている。

  彼女は、ひとりの人を待っていた。


 だが、日が高く昇っても、サイラスは現れなかった。


「殿下、今朝も早くに出て行かれましたよ。朝食も取らずに、ね。」

  リタはベッドを整えながら、小さく愚痴のように呟く。


 エレは伏し目がちに、紅茶の表面に漂う茶葉の影を見つめたまま、静かに尋ねた。

  「赤獅堡へ?」

「はい。」

  リタは頷き、少し言い足した。

  「昨夜ノイッシュが言ってました。今朝は早くから赤獅堡へ向かうって。それに、この数日は忙しくて戻れないかもしれないって。」


 エレの眉がかすかに寄る。

  戦の準備が忙しいのは、理解している。

  サイラスは指揮官として、誰よりも重い責任を背負っている。

  彼がこの時期に、以前のように毎晩の食事や庭の散歩に付き合えるわけがない。


 でも問題は——彼が自分に何も話してくれないこと。

  彼女をこの戦いの計画に、一切含めていないことだった。


 あの夜を思い出す。

  サイラスが屋敷に帰ってきたのは、もう遅い時間だった。

  エレはそのとき、燭台の明かりの下で本を開きながら彼を待っていたのに、彼が告げたのはただ短く「先に休む、明日は軍務だ」という言葉だけだった。


  あのときは疲れているのだと思って何も聞かなかったが——今思えば、彼はいつ出発するのかさえ教えてくれなかった。

 彼女はそっとカップの縁を指先で叩きながら、胸の奥に小さな不安を覚える。


「リタ、この屋敷、最近何か変わったことは?」

  ふいに問いかける。


 リタは少し言い淀み、言葉を選ぶようにしてから低く答えた。

  「騎士の方々が来られました。『護衛のため』だそうですが……正直、監視されているみたいです。」


 エレは目を瞬き、それから小さく笑った。

  だがその笑みは、決して目まで届いていなかった。


「護衛?それとも監禁?」

  彼女は小さく呟く。


 考えるまでもない。

  その騎士たちが誰の命令か——ヴェロニカの部下か、それとももっと正確に言えば、サイラス自身の差し金だろう。

  彼は、エレの意思を聞くこともなく、彼女をここに残すことを決めたのだ。


 エレはゆっくり立ち上がり、窓辺へ歩み寄って指先でそっと窓を押し開いた。

  霜を孕んだ冷たい風が頬を撫で、遠くの庭に並ぶ騎士たちの甲冑が朝日に銀色に光るのが見える。


 銀の鎧、長剣、整然とした巡回。

  それは単なる護衛ではなく、明らかに監視だった。


 エレの視線はゆっくりと彼らをなぞる。

  動きは硬直していないものの、彼女が動くたび、必ず数人の視線が密かに追いかけてくる。

  その任務は外敵を排除することだけではなく、彼女をこの屋敷から出させないことだ。


 ——サイラスはすでに決めていた。

  彼女に何も告げずに。


 エレは唇をきつく引き結び、その感覚を心の中で静かに嫌悪した。




 夜明けの冷気がまだ残る頃、

  エレはここ数日間の沈黙を破り、屋敷の守衛たちに冷然と命じた。


「殿下に会いに行くわ。」

 数人の騎士たちは顔を見合わせ、一人がためらいがちに答える。

  「殿下は軍務でご多忙です。本日はおそらくご面会は……」


「なら、私が直接聞きに行くわ。」

  エレの声は静かだったが、その口調には拒絶を許さない気迫があった。


 騎士たちは互いに視線を交わし、ついには観念したように頷く。

  「……では、護衛として同行いたします。」


 こうして、彼女はようやく赤獅堡へ向かう道を踏み出した。




 赤獅堡に到着すると、門衛の騎士たちは予想外の来訪者に一瞬驚いたものの、さすがに阻むことはできず、渋々と彼女を中へ案内した。

  石造りの廊下を進む間、エレは帝都の貴族街とはまるで異なる空気を感じ取っていた。

  ここには華美な装飾などなく、あるのは堅牢な壁、擦り切れた鎧、松明が燻った匂い、そして兵士たちの低く切迫した声だけ。


 彼女は護衛に言って、サイラスのいる部屋まで案内させた。

  だが、部屋の前にたどり着いた時、扉の隙間から漏れる灯りが彼女の足を止めた。

  中の蝋燭の火が揺らぎ、軍用の地図を照らしている。

  エレはそっと立ち止まり、半開きの扉越しに視線を注ぐ。


 そこでは、サイラスとヴェロニカが戦略を話し合っていた。


 広げられた地図は木のテーブルの半分を占領し、小さな軍棋が各部隊の位置を示していた。

  サイラスは椅子に腰掛け、片手で硬い黒パンを握りしめ、ときどき無理やり噛み千切っている。

  その隣でヴェロニカは短剣を使い、手際よく干し肉を切り分け、無言で彼の手元の木皿に置いた。


「現在動かせる兵力、歩兵三千五百、弓兵千二百、騎兵五百……火銃兵五十。」

  ヴェロニカの指が地図上の駒を軽く叩く。声音はいつも通り冷静だ。


 サイラスは気のないように「ん」と応え、黒パンを齧る。あまりに硬く、眉をひそめながらも無理やり飲み込む。


「……火銃兵五十人じゃ少なすぎる。」

  彼は指先でテーブルをとんとん叩き、もごもごとした声で言った。


「これが急造で訓練できる上限です。」

  ヴェロニカは目を上げず、干し肉をまた切り分けて皿に置く。


 サイラスは彼女を横目で見たが、何も言わず、肉をつまんで口に入れる。


「陣地戦になれば、三斉射も耐えられない。」

  ヴェロニカが淡々と告げる。


「じゃあ、陣地戦はしない。」

  サイラスは肉を咀嚼しながら、平然と返す。


 その言葉にヴェロニカが初めて顔を上げ、彼をじっと見た。

  「……どういうつもり?」


「森の縁に伏兵させる。最初の一斉射を撃ったら即座に撤退させる。その隙に騎兵を側面から回す。」

  サイラスは干し肉を飲み下しながら、手元の地図に線を引いた。

  「敵の補給はまだ万全じゃない。準備が整う前に叩く。」


 ヴェロニカは一瞬考え込み、低い声で答える。

  「……可能性はある。」


「じゃあ、それで決まり。」

  サイラスはまた黒パンを手に取り、噛みながら地図を見つめる。

  「他に問題は?」


 ヴェロニカはそんな彼を見つめ、わずかに息をついた。

  パンを齧る姿を見て、静かに小さく切った肉をまた皿に載せた。

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