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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
舞踏の光と闇の刻

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(145) 夜風の囁き

「まったく、驚かされてばかりだな。」

  レオン伯爵は杯を片手に、悠然とエレとヴェロニカの隣に立ちながら、視線を壇上に向けた。

  その声は穏やかだが、含みを帯びた皮肉が滲んでいた。

  「王族に復帰したばかりだというのに、次の瞬間には前線行きとはな。ラインハルト陛下も思い切ったものだ。」


「それは、サイラス殿下ご自身の決断です。」

  ヴェロニカは抑揚を抑えた声で、しかしはっきりと返した。


  言い訳も弁解もなく、その一言があたかも線を引くかのように、彼女自身の立場を示した。

  その瞳は揺るぎなく、迷いも言い逃れも許さない光を宿していた。


  「私はもう選んだ。あなたやヒルベルトとは関係ない。」

  そんな無言の意志が伝わってくるようだった。


 レオンの笑みが一瞬止まり、目がわずかに細まった。

  その視線はわずかにエレをかすめ、そしてヴェロニカへと戻る。唇の端がまたゆるむ。

  「なるほどな……」


  言葉は曖昧に濁したが、その声音には探るような、からかうような響きがあった。

「つまり、お前は彼を選んだというわけか。」


  杯をゆっくりと揺らしながら呟くその声は、まるで独り言のようでありながら、しっかりとした含意を持っていた。


「それは『選ぶ』とかいう問題じゃない。」

  ヴェロニカは冷ややかにその言葉を断ち切った。


  瞳は静かで、波紋ひとつ立てぬ湖面のように平坦だ。

  「それが最も合理的な結果に過ぎない。」


 レオンは眉をわずかに上げた。

  「合理的?」


「殿下は自ら戦を選び、前に進むと決めた。その彼には、信頼できる補佐が必要だ。」

  ヴェロニカの声は落ち着いていて、しかし確固としていた。

  「だから私は従う。それだけのこと。」


 レオンはしばし彼女を見つめ、それから小さく含み笑いをもらした。


  「……なるほど、意外だな。」

  その笑みは嘲りのようでもあり、同時に何かを面白がるようでもあった。


  彼はヴェロニカの選択にもっと複雑な理由、個人的な感情を予想していた。

  だが今、目の前にいるのは、ただ自分の正しいと信じる道を選ぶ女だった。

  それは誰のためでもなく、感情でもなく――ただの覚悟。


 だが――本当に、それだけなのか?

  レオンの視線がふとエレへと移る。その瞳に、一瞬だけ鋭い光が走った。


 彼はゆっくりと杯を持ち上げ、挑発するような微笑を浮かべた。

  「エレノア嬢、君は罪な女だな。」


 エレは答えなかった。彼を見ることさえせず、ただ壇上を見つめていた。

  そこにいるのは、琥珀の瞳を持ち、燭光に鋭く映える軍服を纏った男。


  皇帝の隣に立ち、帝国の王子として、出征を宣言した男。

  今や全ての貴族の視線を集める存在――


 だがエレの目に映るのは、それだけではなかった。

  月光の庭で「迷子の使節」と名乗ったあの青年。

  琥珀石の意味を問うたあの男。

  そして、自分が選んだたったひとりの人。


 エレはそっと微笑んだ。声は淡く、だが芯の通った響きを持っていた。

  「その罪で、サイラスの心が少しでも軽くなるなら、私は喜んで背負うわ。」


 レオンの笑みがわずかに硬直した。

  そんな答えは予想していなかったのだろう。


  じっと彼女を見つめる視線に、一瞬探るような色が宿り――そしてすぐに、どこか含みを帯びた笑いを洩らした。


  「……面白い答えだ。」


 ヴェロニカも横目でエレを見やり、その瞳にわずかな光を宿した。

  まるで、もう一度彼女の決意を確かめるかのように。


 だがエレはそれ以上何も言わなかった。

  ただそこに立ち、壇上のサイラスを見つめていた。


 これはただの帝国とサルダン神聖国の戦争ではない。

  これは、サイラスが選んだ戦い。

  そして、自分もまた選んだ道だった。


 ◆ ◆ ◆ 


 夜の帳が深く降り、皇宮の燭火はまだ消えずに、広い石段やバルコニーの彫刻欄干を照らしていた。

  夜風は微かに冷たく、夜来香の淡い香りを運び、エレの緩く結われた髪をそっと揺らす。


 エレは欄干のそばに立ち、灯りで煌めく帝都を見下ろしていた。街はまだ賑やかで喧騒に満ちているのに、彼女の心は不思議なほど静かだった。


「まだ休んでないのか。」

  背後から聞こえたその声は、少し低くかすれていて、どこか気だるげだった。


 振り返ると、サイラスが軽やかな足取りで近づいてきた。

  黒の軍装に身を包んだ姿は端正で、肩に掛けたマントにはまだ夜の冷気が残っている。

  ついさきほど皇帝との会議を終えたばかりなのだろう、まだ休む気配はなかった。


「むしろ、こっちが聞きたいくらいだよ。」

  エレは柔らかく笑い、彼の手にある杯を見て、意味ありげに問いかけた。

  「……で、今夜はどのくらい飲んだの?」


 サイラスは片眉を上げ、杯を持ち上げた。

  琥珀色の液体が燭光に揺れる。

  唇がわずかに上がり、「心配してくれてるのか?」と挑発するように言う。


「心配なんじゃなくて、明日の朝起きられるか確認してるだけ。」

  エレは冗談めかして返す。


 サイラスは苦笑を漏らし、手の杯を欄干の上に置いた。

  そして一歩近づき、かすれた低い声で囁いた。

  「もしかして、寝るところまで見張るつもりか?」


 エレはわずかに首を傾げ、艶やかに笑った。

  「おとなしく休むなら、考えてあげてもいいけど?」


 それはただの軽口のつもりだった。

  ……だが、次の瞬間。


 サイラスは突然腕を伸ばし、彼女を強く抱き寄せた。

  背中を冷たい欄干に押し当てるようにしながら。


「サイラス——!」

  エレは小さく息を呑んだが、本気で逃れようとはしなかった。


 彼は顔を近づけ、琥珀色の瞳が燭火を映して揺れる。

  声は低く、そして静かだった。

  「……なら、今夜は付き合えよ。エレ。」


 エレは一瞬息を詰めた。

  次の瞬間、彼の唇がそっと彼女の唇を覆った。


 それは想像していたよりもずっと優しいキスだった。

  夜風の冷たさと、彼の吐息に混じるわずかな酒の香り。

  強引さはなく、ただ静かに触れ合うだけで、まるでこの舞踏会が終わった後の短い安息を大切にするかのようだった。


 彼女の指先が震え、無意識に彼の袖を握りしめる。

  心臓の鼓動が早まり、呼吸が乱れる。

  こんなにも不意打ちで距離を奪われたのに、拒む気持ちはどこにもなかった。


 サイラスがゆっくりと唇を離すと、彼の口元には珍しく柔らかな笑みが浮かんでいた。

  低く掠れた声が、彼女の耳元で囁く。


「……たぶん、明日からは、もうこうしていられない。」

 あまりにも淡々とした口調。

  それはまるで別れの言葉のようで、けれどエレにはすぐには意味が飲み込めなかった。


 彼女は瞳を瞬かせ、少しぼんやりとした視線を彼に向けた。

  まだ頬には夜風の冷たさとキスの熱が残っている。

  ゆっくりと息を吐き、唇を上げた。


「……なら、今のうちに、もう少しだけ。」

 そう言うと、彼の襟元をそっと掴み、背伸びをして自分から口づけた。


 夜風が二人の周りを吹き抜ける。

  皇宮のバルコニーで、二つの影がぴたりと寄り添う。

  遠くの街灯りはまだ眩く輝いているのに、それ以上に大きな光が、二人の胸の内でそっと灯っていた。


 そして、サイラスが目を閉じたその時、心の奥で静かに決意する。


  ――彼女を戦場には連れて行かない。


  この夜が終わったら、必ず、彼女を遠ざける。

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