(144) 不退の誓言
皇帝がサイラスの親征を宣言したあと、大広間では貴族たちのざわめきが続き、低い声で議論を交わしながら、この戦争が意味するものやその影響を分析していた。
サイラスは高台に立ち、下の来賓たちを見下ろす。その視線は群衆を越えて、エレの姿を捉えるが、何も言葉は発しなかった。
――これは彼自身の決断だ。
帝国の栄光のためでも、王族の権威のためでもない。ただ、エレが後顧の憂いなく、この地に留まれるように。
サルダン神聖国の手が、二度と彼女に伸びぬようにするために。
たとえこの戦争の結末がどうあれ、自らその道を選んだ以上、もはや退路はない。
彼は一歩前に出ると、背筋を真っ直ぐ伸ばし、全場を鋭い目で見渡した。まるで抜かれる前の剣のように冷たく張り詰めたその気配に、大広間の空気は次第に静まっていった。
深紅に染まった軍装は燭光に鈍い光を帯び、夜闇を纏ったかのように重い。
声は決して大きくはなかったが、その低く抑えた響きには、誰も無視できぬほどの確かな意志が宿っていた。
「帝国は、この大陸に数百年屹立してきた。だが今、我々の敵はその全てを奪おうとしている。」
言葉は感情を煽るものではなく、戦士としての冷静な現実認識の陳述だった。
「サルダン神聖国の野心は、もはや隠されてもいない。彼らは交渉の席で満足するつもりなどなく、戦場で帝国の栄光と大地を奪おうとしている。」
その鋭い視線は、集まった貴族や軍部の将校たちを真正面から射抜く。
戦争が避けられぬことは皆知っている。それでも誰も先に口に出したがらない、その現実を真正面から暴き出す役を自分が引き受けたのだ。
「帝国の領土は祈りや協定で得たものではない。我々の祖先が剣と血で築いたものだ。」
この言葉は、帝国の歴史を知る貴族たちに強い共鳴を呼んだ。彼らの誇りは征服と勝利にこそあったからだ。
彼はわずかに手を上げる。動作に合わせてマントが揺れ、その気配はまるで今にも鞘を抜こうとする剣のように鋭利だった。
「今、帝国の名の下に、俺はこの戦いを受ける。」
声は落ち着いていたが、その言葉の重みは大広間を一瞬で押し黙らせた。
そして、ほんの僅かに口角を吊り上げ、冷たい蔑みを帯びた声音で告げる。
「戦争を望むのなら――本当の戦争を見せてやる。」
最後に肩のマントを整え、低く、しかしはっきりとした声で言い放った。
「勝利を、帝国に。」
一瞬の沈黙ののち、杯がぶつかる音が響き、続いて軍部の貴族たちの賛同の声が漏れ始める。
重苦しい緊張が漂う中、その場の空気は徐々に熱を帯びていった。
舞踏会場の下では、サイラスの発言に引き込まれた貴族たちのささやき声が途切れることなく響いていた。
特に軍部貴族たちの反応は熱気を帯びており、互いに視線を交わしながら、どこか興奮と期待を滲ませていた。
彼らにとって、この差し迫る戦争は軍権の拡大、戦功の蓄積、そして帝国の未来の版図を変える好機を意味していた。
しかし、その熱を帯びた空気とは対照的に、文官や反対派の貴族たちの顔には微妙な陰りがあった。
彼らは黙したまま唇を引き結び、明確な反対は示さぬものの、その視線には憂慮と不満がありありと浮かんでいた。
この戦争がどれほどの資源を食い潰すか、そして帝国が果たしてその負担に耐えられるのか――その答えは誰にも分からなかったからだ。
皇帝の隣に立つエドリックは、余裕のある姿勢でゆるりと杯を揺らしていた。
会場を見渡すその瞳は、まるであらかじめ並べられた駒を品定めするかのようで、その優雅で泰然とした佇まいは、近くに立つサイラスとはまるで違う時間を生きているようにさえ見えた。
「どうやら、本気で覚悟を決めたようだな。」
エドリックが柔らかな声でそう言った。調子は穏やかだが、その言葉が持つ意味は重かった。
サイラスはその言葉には答えず、ただわずかに口元を吊り上げ、視線を皇帝に向けた。
ラインハルトの表情は相変わらず動かない。その宣告は一振りの剣のように、舞踏会の空気を根本から切り替えていた。
そしてそれこそが、舞踏会の前に彼が皇帝やエドリックと交わした話し合いの成果だった。
エドリックの視線が、サイラスの肩に掛けられた深い色の軍装マントに移る。
指先が杯の縁に軽く触れ、無意識のような仕草で止まった。
「それにしても……先ほど庭園での“小さな騒ぎ”は、一体何だったんだ?」
その声は軽い調子を装い、唇にはわずかな笑みが浮かんでいたが、その言葉には含みがあった。
サイラスは軽く眉を上げ、薄い笑みを返す。
「曖昧な言い方だな。庭園のことならいろいろあるぜ――恋を囁くのか?愛を語るのか?それとも……合図に杯を割るか?」
エドリックは低く笑ったが、それ以上は追及しなかった。
意味深な視線を送るだけで、その瞳はこう告げていた。
「……お前が自分で選んだことなら、口は出さないさ。」
そしてゆっくりと杯を持ち上げ、穏やかな声で言った。
「まあ、何にせよ、もうこの道を行くと決めたのなら……せいぜい無事を祈るよ。」
サイラスは何も言わず、ただ小さく笑みを浮かべた。
そして杯を軽く合わせた音が、夜の静けさに金属のように鋭く響いた。




