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異世界の聖女を母に持つ私は、亡国の姫として生き延びる  作者: 雪沢 凛
舞踏の光と闇の刻

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142/194

(142) サイラスの覚悟

 エレはサイラスの腕を支えながら宮殿の内側へと急ぎ足で進んだ。二人の足取りは速く、周囲では近衛兵や侍従たちが慌ただしく行き交っていたが、彼女は明らかに周囲から向けられる異様な視線を感じていた。何しろ、今夜の舞踏会の注目を集めたばかりのサイラスが、今は彼女に支えられながら歩き、その腕からはうっすらと血がにじんでいる――これが噂の種にならないはずがなかった。


 サイラスはそんな彼女の懸念を察したのか、ふと顔を傾けて小声で言った。

「心配いらない。マントがある程度は隠してくれる。」


 だが、エレが心配しているのはそんなことではなかった。彼の傷の方が何倍も重要だった。


 やがて二人は宮殿内の離れにある控室に辿り着いた。そこは王族や貴族たちのために用意された休憩所で、舞踏会の最中にもたびたび使われる場所だった。今は誰もおらず、静まり返った室内に、不自然なほどの緊張感が漂っている。


 サイラスは無言で扉を開き、部屋に入るとエレの手を離し、そのまま机に手をついてぐらりと身を預けた。肩で息をし、額にかかる髪が汗に張りついている。彼が無理に平静を装っていることは明らかだった。


「サイラス!」

  エレは扉を閉めると駆け寄り、彼のそばにひざをついた。

  「座って!」


 その声はめずらしくきっぱりとしており、サイラスは少し驚いたように眉を上げたが、素直に長椅子に腰を下ろした。俯いた彼の髪が表情を隠し、腕からは鮮血がぽたぽたと絨毯に落ちていた。その赤が異様なほどに鮮やかだった。


 エレは彼の袖口に手を伸ばそうとする――


「待て。」

 サイラスが彼女の手首を掴んだ。冷静を装った目には、抑え込まれた緊張の色が浮かんでいる。

「ヴェロニカがすぐ来る。彼女には見せるな。」


 エレは一瞬、目を見開いた。彼が何を恐れているのか、すぐに理解した。

 ――彼女の癒しの力が露見してしまう。

 だが、毒を受けた今の彼に、そんなことを気にしている余裕はないはずだ。


「あとどれくらい我慢するつもり?」

  彼女は声を潜め、怒りを帯びた口調で問い詰めた。

  「倒れるまで我慢して、それから助けろとでも?」


 サイラスは微かに息を吐き、少しだけ肩をすくめた。

「少し痺れているだけで、大したことは――」


「黙って。」

 エレは彼の言葉を容赦なく遮った。

  その声には、これまでにない強い意思がこもっていた。


 彼女はそっと彼の負傷した腕を取ると、掌を傷口に重ねた。指先から柔らかな温もりが伝わり、やがて穏やかな光が滲み出す。サイラスの体が一瞬ぴくりと反応し、琥珀色の瞳がわずかに揺らいだ。


 エレは集中していた。外の気配に惑わされることなく、静かに力を送り込む。破れた肉が修復され、血管が再びつながる。体内に入り込んでいた毒素も、ひとつひとつ浄化されていった。


 やがて傷は塞がり、肌は本来の色を取り戻した。ただ、服の裂け目と血の痕だけが、さきほどまでの状況を物語っていた。


「終わったわ。」

  彼女は手を引き、顔を上げて彼を見つめる。

  「もう平然を装わなくてもいいのよ。」


 サイラスは一瞬言葉を失い、それからふっと笑みをこぼした。


「まったく……君は本当に……」

 その言葉が終わらぬうちに、外から足音が近づいてきた。そして――


「殿下!」


 ヴェロニカの声が扉越しに響き、すぐに扉が開けられた。彼女は室内に足を踏み入れ、鋭い視線でサイラスの姿を確認すると、すぐに険しい表情を浮かべた。


「お怪我を?」

 その声には、怒りにも似た感情がにじんでいた。守り切れなかった自責の念もあるのだろう。


 サイラスは軽く額の髪をかき上げ、小さく苦笑した。

「かすり傷だ。騒ぐほどのことじゃない。」


 だがヴェロニカの視線は、床に残る血の痕に向けられ、その眉間に刻まれた皺は解けなかった。

「誰の仕業ですか?」


「メイド服を着た刺客だった。恐らく使用人に紛れ込んでいた者だろう。」

  サイラスの声は淡々としていたが、その中に鋭い観察が光っていた。

  「ただ、本気で殺す気はなかったように思える。少なくとも、死を覚悟した襲撃には見えなかった。」


 ヴェロニカは一瞬沈黙し、やがて低くつぶやいた。

「つまり……探り、ですか。」


「その可能性は高い。」

 サイラスは椅子の背に指を沿わせながら視線を伏せた。

  「毒を塗った刃物を使い、致命傷を避けつつも確実に苦しめる……それだけで十分だろう。」


「拘束されても自害せず、煙幕を使って逃げた。……それはつまり、彼女には撤退の手段があったということ。目的が私の命ではなく、“警告”だったと考えれば辻褄が合う。」


「警告……?」

  エレが小さく繰り返すと、胸の奥にざわめきのような不安が広がった。


「まだはっきりとは言えない。」

  サイラスは微笑んだが、その瞳に笑意はなかった。

  「けれど……今夜の本番は、まだこれからだ。」


 ヴェロニカの目が細くなり、静かにサイラスの表情を見つめる。

「つまり――」


「皇帝が、今夜……何かを口にするだろう。」


 サイラスの声音は静かだったが、そこに込められた確信は覆せない強さを持っていた。

 エレの胸がふと揺れた。

  脳裏に浮かんだのは、舞踏会のあの場面――ラインハルトがサイラスの正体を明かした際の口調には、どこか含みを残した余韻があった。まるで、意図的に何かを伏せたような……。


「つまり……戻るしかないのね。」

  エレは静かにそう言った。


 ヴェロニカは迷うことなく頷いた。

  「礼服に血が付いている。あのまま戻るのは適切じゃないわ。すぐに軍服を手配するよう手を打つ。早ければ間に合うはずよ。」


 それを聞いたサイラスは、皮肉めいた笑みを浮かべて口元を緩めた。

  「……さすがに抜かりないな。」


「それが私の役目よ。」

  ヴェロニカは事も無げに答え、彼を一瞥する。


  「それに、今夜は“王子”として公の場に初めて正式に立つんでしょ? こんな姿で皇帝の前に戻るわけにはいかないもの。」


 そう言うと、彼女はすぐに控えていた侍従に向き直り、衣服の準備を命じた。


「エレ、先に戻りましょう。」

  ヴェロニカは彼女に目を向け、合図する。


 エレはわずかに眉を寄せ、サイラスの血に染まった腕に視線を落とす。そして一瞬、ためらった。

  「でも――」


「心配いらない。俺はそんなに脆くない。」

  サイラスはその言葉をあっさりと遮った。袖口を整えながら、どこか確信めいた口調で続ける。

  「着替えたらすぐに追いつく。」


 まるで先ほどの襲撃が、ほんの些細な出来事だったかのように。


 エレは唇を軽く噛み、彼の顔をしばらく見つめたが、何も言わず、やがて小さく息を吐いた。


「……なら、急いで。」

 その言葉には、苛立ちとも心配とも取れる色が滲んでいた。彼女はそれだけを残し、ヴェロニカと共に部屋を出ていった。

  歩みはどこか急ぎ足で、今にも振り返りそうな自分を抑えつけるようだった。


 二人の姿が扉の向こうに消えると、部屋には再び静寂が戻った。

  揺れる燭光が銀の鏡に映り、淡く揺らめく影を壁に落としている。


 サイラスは鏡の前に立ち、マントの留め具を外すと、それを無造作に椅子の背にかけた。次いで、ゆっくりと片袖を脱ぎ、腕を露わにする。


 傷はすでに癒えていた。肌には裂傷の痕すら残っておらず、衣の内側には、赤黒く乾いた血だけが名残を留めていた。


 彼は黙って自分の上腕を見つめ、指先で先ほど刃に切られた場所をなぞった。痛みはすでにない。だが、内側から疼く感情は、むしろそれよりも深かった。


 ――もう一歩早ければ。

  ――あの瞬間、気を逸らさなければ。

  ――もしも……


 サイラスは目を閉じ、深く息を吸い込み、その思考を力づくで押し殺した。

 だが手は、自然と下へ――前腕へと滑っていく。


 燭光の下、その腕にはいくつもの淡い痕が浮かび上がる。

  風化しかけた白い細線のようなものもあれば、やや深く刻まれ、縁が荒れたものもある。繰り返し何度も傷つけられた跡のように。


 指先で古傷をなぞると、ざらついた感触が伝わった。

  それはかつて、彼が唯一「自分の意思で」感じられる痛みだった。


 内面の混乱や絶望が耐えがたくなったとき――

  彼は、この身体の痛みだけを手がかりに、現実に立っていた。


 そして今夜。


 指先が、もっとも深く刻まれた痕の上で止まった。


 あの瞬間、エレを危険に晒しかけた。

  迷ってしまった――

  自分の中で、そんなことは初めてだった。


 これまで、彼は何も執着せずに生きてきた。

  生きることさえ、ただの「状態」でしかなかった。だが、今は――


 サイラスはそっと手を握りしめた。

  指の関節が白く浮かび上がるほどの力が込められたが、それでも、もう新しい痛みで感情を消し去ろうとはしなかった。


 ただ、静かに――癒えた傷跡を見つめていた。


 やがて、彼は低く笑った。


  「……滑稽だな。」


 ほとんど聞き取れないほどの声だったが、そこには自嘲の響きと、言葉にできぬ苦味が滲んでいた。


 その時、扉の外から足音が聞こえ、沈黙が破られた。


 サイラスはすぐには振り返らず、衣を整えることに集中した。

  血に染まった衣装を脱ぎ捨て、侍従が届けた軍服に袖を通す。


 襟元を直し、再び鏡の中の自分を見つめると、そこにはいつもの冷静で端整な姿があった。

  琥珀の瞳には迷いも、葛藤も、影すら映っていない。

  まるで、ほんのひととき前の揺らぎなど存在しなかったかのように。


 彼は踵を返し、扉へと向かう。


 ――舞踏会は、まだ終わっていない。

  彼には、果たすべきことが残っていた。

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