(141) 黒煙の刺客
エレが異変に気づく前に、一つの黒い影が音もなく接近していた。夜の闇が、彼女の背後に忍び寄るその鋭利な殺意を覆い隠していた。
閃光のような冷たい輝きが走り、短剣が彼女の背中めがけて一直線に突き刺さる——!
強烈な危機感が一瞬にして襲いかかり、エレはとっさに振り返ろうとするが、その前に突如として強い力に弾かれた。
「エレ!」
耳元で炸裂するような、聞き慣れた声。身体のバランスを失い、横へと倒れ込む彼女。まだ体勢を立て直す前に、肉を裂くような鈍い音が響いた。
「スッ——」
石畳に飛び散る鮮血。黄昏色の灯りの下、その赤はやけに鮮やかだった。
サイラスの腕が鋭利な刃で切り裂かれ、黒い礼服の袖を通して血が滲み出る。彼は眉をわずかにひそめ、低くうめいたが、一歩も退かず、逆に襲撃者の手首を掴み、反転させて力を込めた。
「ッ……!」
黒衣の女が苦悶の声を漏らし、手から短剣が滑り落ち、石畳に当たって鋭い音を立てた。
ようやくエレは気づいた。襲撃者は、黒いメイド服を着た女だったのだ。
動きに合わせてスカートの裾が翻り、隠された刃がちらりと見える。しかし、女はそれで終わらなかった。手首を振ると、袖の中から再び細長い短刀が滑り出し、サイラスの喉元へと閃く!
エレの瞳孔が収縮し、警告の声を上げようとするより早く——
サイラスの身体が、意識よりも先に反応した。
彼は腰をわずかにひねり、刃は紙一重で首を掠めて礼服の襟を裂いただけで済んだ。
エレは即座に反応し、落ちていた短剣を拾い上げ、目を鋭く光らせながら反撃の構えを取ったが——
「いい。」
サイラスが低く告げた。落ち着いた声の中には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
言葉が終わるか終わらないうちに、彼の手が稲妻のように伸び、女の手首を捻る。
「グキッ——!」
骨の音がはっきりと聞こえ、女は苦悶の声を漏らして後ずさる。手首は完全に力を失っていた。
だが、彼女はまったく動揺していなかった。むしろ、低く笑みをこぼす。
「フッ……」
顔を上げ、口元が動く。何かを言いかけたように見えた。
次の瞬間、彼女の手首が再び動き、袖口から現れた銀色のブレスレットが小さく音を立てて作動した。
パシュッ! と微かな音が響き、小さな鋼針が仕込まれた薬莢を破る。すぐに、「シュウウ……」という音と共に、黒煙がまるで闇の触手のように広がっていく。
エレはすぐに息を止め、本能的に一歩後ろへ退いた。周囲を見渡すが、視界はたちまち霧に包まれ、ぼやけていく。
サイラスの気配はまだ近くに感じる。だが、黒衣の女の姿はもう見えなかった。
サイラスは眉をひそめ、指にわずかに力を込める。予想通りの撤退手段だったようだ。やがて夜風が霧をかき消し、視界が戻ったときには、石畳にはいくつかの血痕だけが残されていた。
「……手際がいいな。」
冷静に状況を評価するような口調で、彼は呟いた。
空気中には、まだ血と薬品の焦げた匂いがわずかに残っていた。
遠くから近づいてくる衛兵たちの足音。騒ぎを聞きつけたのだろう。
エレは急に不安を覚え、サイラスの方へと振り向いた。
彼の黒い礼服の袖口は、すでに血に染まりきっていた。赤黒い染みはどんどん広がり、傷の周囲の肌が紫色に変色していた。——毒が塗られていたのだ。
「怪我してる!」エレは慌てて彼の腕に手を伸ばし、治癒の魔力を注ごうとした。
だが、彼女の手が触れるより早く、サイラスがその手を掴んだ。
瞳はわずかに陰り、しかし声は静かに、そして揺るぎなく低く囁かれた。
「ここでは、ダメだ。」
エレが一瞬動きを止めた。
そう言えば、少し離れた回廊の陰には、すでに数名の衛兵たちの姿が見えていた。
今ここで彼を癒せば、彼女の力が明るみに出てしまう。
サイラスは唇の端をわずかに引き、彼女の心配を察したように、静かに言った。
「心配するな……王族は毒への耐性くらい、多少はある。」
「……本気で言ってる?」エレが信じられないというような目で睨んだ。
「本気じゃないさ。」サイラスは小さく笑ったが、その声はわずかに掠れていた。
「じゃあなんで——」
「部屋へ行こう。」サイラスは彼女の言葉を遮り、低く言った。「ここは人が多すぎる。」
彼は振り向き、駆け寄ってきた衛兵に向かって冷静に命じた。
「今、刺客がいた。庭を封鎖し、不審者を調査しろ。ただし、大事にはするな。」
「はっ、殿下!」
衛兵たちはすぐに散開し、任務に移った。
エレは、蒼白になったサイラスの顔を見つめながら、胸の中に不安が膨れ上がっていく。
——彼は、毒を受けている。
このままでは、時間との戦いになる。




