(140) 庭園での再会
サイラスは静かに庭園の小道を踏みしめながら歩を進めた。
白い小石が敷き詰められたその道の両側には、手入れの行き届いた薔薇や低木が並び、夜風に乗ってほのかな花の香りが漂っている。
宴の喧騒は、彼がその場を離れるにつれて徐々に遠のき、代わりに夜の静寂が辺りを包み込んでいった。
しばらく歩いたところで、彼の視界に、見覚えのある姿が映る。
石造りのテーブルのそば、長椅子にもたれかかるようにして、一人の少女が座っていた。
エレだった。
彼女は片手で額を支え、長衣の裾を無造作に広げながら、疲れたような様子で遠くの夜空を見つめていた。
彼が近づいていることには、まだ気づいていないようだった。
サイラスの口元がわずかに緩む。ゆっくりと歩み寄り、茶化すように声をかけた。
「どうした? もう疲れたのか? あの貴婦人たちは、帝国の老貴族よりも手強かったか?」
その声に、エレは一瞬驚いたように肩を震わせ、そして振り向く。
月明かりの下、彼の姿を確認すると、彼女は目を瞬かせた後、ふっと笑みを浮かべた。
「確かに……彼女たちの会話の多さは、あの老貴族たち以上ね。」
その声にはわずかな疲労と、しかしどこか楽しげな軽さがあった。
サイラスは眉をひそめながら、隣の石のテーブルに寄りかかり、興味深げに彼女の顔を見つめる。
「それで? 彼女たち、君に何を言っていた?」
エレはため息混じりに微笑んだ。
「まあ……『帝国の貴族女性としての心得』とか、『殿下の舞伴としてどう振る舞うべきか』とか、そんな話ばかりよ。
それに、今後の舞踏会では“貴婦人同士の付き合い方”も覚える必要があるとか……」
サイラスは小さく笑った。
「君なら、うまくやれるだろう?」
「何とかね。」
エレは優雅に両腕を伸ばし、まるで夜に咲く花のように静かに息を吐く。
「でも、あまりにも熱心だったから……ちょっと抜け出してきたの。」
サイラスは彼女をじっと見つめながら、口元に薄く笑みを浮かべた。
「つまり……君は帝国の庭園で“迷子”になったってわけか?」
その言葉に、エレは一瞬だけ驚いた顔をし、すぐに吹き出す。
「その言い方……何か、含みがあるように聞こえるんだけど?」
サイラスは答えず、代わりに少し顔を伏せて、意味ありげな視線を送る。
「思い出さないか? どこかで見たような光景だって。」
エレはそっと息を吸い、思い出す――三年前の夜。
エスティリア王宮の庭園で、彼女は一人の男と出会った。
その男はフードをかぶり、名を名乗らず、「迷子になった使節」だと語った。
当時の彼女は、まだエスティリアの姫。
そしてあの男――今まさに目の前にいるこの男が、サイラスだった。
今、同じような庭園の夜。
今度は“迷子”になったのは、自分のほうだった。
「……そうね。」
エレは懐かしげに微笑む。
「“迷子の使節”は、今や帝国の王子。そして私は……“迷子の舞姫”かしら?」
「いや。」
サイラスは静かに頭を振り、琥珀色の瞳がやわらかく光を湛える。
「今の君は、迷っているんじゃない。ようやく、道を見つけたんだ。」
エレの視線が、ふと庭の一角へと向かう。
そこには、色とりどりの三色スミレが咲き誇っていた。
夜灯に照らされ、紫・赤・白の花びらが風に揺れている。
「……色が混ざり合って、すごく綺麗ね。誰か、王族の好みだったのかしら?」
サイラスはその視線を追い、静かに答える。
「サンシキスミレだよ。」
「サンシキスミレ……」
エレはその名前を口にし、花をじっと見つめる。どこかで聞いたような、懐かしい響きがあった。
「花言葉、知ってる?」
サイラスの声は穏やかだったが、その裏に何かを秘めたような響きがあった。
「いいえ……知らないわ。」
サイラスは、赤いスミレにそっと指先を伸ばす。
その柔らかな花びらを撫でながら、静かに言葉を紡ぐ。
「赤いスミレの花言葉は――“想い”だ。」
エレは目を見開き、彼の表情をそっと伺う。
サイラスはそのまま、静かに花を見つめていた。
「じゃあ……紫は?」
彼女が問うと、サイラスは一瞬だけ目を細め、そして答えた。
「“無償の愛”だよ。」
エレの心がわずかに震える。
彼女は花を見つめながら、しばらく黙り込んだ。
「花に詳しいのね?」
なんとか気まずさを和らげようと、彼女は軽口を叩く。
「いや、それほどでもない。」
サイラスは小さく笑い、視線を花壇に戻した。
「これは……母の好きな花だった。」
エレは、はっと息を呑んだ。
夜風が吹き、花が揺れる。
まるで過去の記憶が、そっと囁くように。
「……そうだったの。」
彼女は静かに呟く。だが、それ以上は聞かなかった。
やがてサイラスは手を差し出し、エレを立たせた。
彼女は自然とその手に手を重ねたが――その瞬間、手の温もりに微かに指先が震える。
その震えに気づいた彼は、特に何も言わず、そっと彼女の手を引いた。
「どうかしたか?」
エレは首を振る。
「……さっき、あなたの母の話をしてたから。」
その問いに、サイラスは少しだけ目を伏せる。
どこか遠くを見るように、花壇を眺めながら語る。
「母は、いつもこの花が咲くと春が来たと言っていた。
窓辺で僕を抱きながら、世界の美しさを教えてくれた……」
彼の声は穏やかだったが、どこか空虚で――作られたように完璧すぎた。
エレは、彼の表情から何かを読み取ろうとしたが、次の瞬間――
夜風が強く吹き抜け、彼女の肩が小さく震えた。
それに気づいたサイラスは、ためらうことなくマントを脱ぎ、そっと彼女の肩にかけた。
「エスティリアより寒いからな。早く慣れた方がいい。」
その口調は淡々としていたが、どこか優しさに満ちていた。
エレはその様子に、ふっと微笑む。
「随分と気が利くのね。」
「これくらい、貴族として当然の礼儀だ。」
その返答は、まるで照れ隠しのようだった。
だが――その瞬間。
静寂を裂くように、鋭い“殺気”が風に乗って忍び寄る。




