(14) 晨光の下での対話
ブレスト領の朝霧が、石畳に淡く光を落とす。
市場の喧騒が少しずつ広がり、城下町はゆっくりと目覚め始めていた。
サイラスが屋敷を出ると、ちょうどエドムンド侯爵と鉢合わせた。
侯爵はいつも通り端正な装いを纏い、
金髪には年月を感じさせる白金色の光沢が混じっている。
年齢を重ねてもなお、彼の姿勢には貴族としての威厳が漂っていた。
その傍らでは、従者たちが馬車の準備を整えている。
どうやら今日は遠出するつもりらしい。
「カイン、ちょうどよかった。」
エドムンド侯爵は穏やかに微笑むと、
どこか探るような声音で続けた。
「今日は早めに帝都へ向かうつもりだ。少し付き合ってくれないか?」
「父子」として、ゆっくり話す時間も必要だろう——そう言いたげな口調だった。
「城下町まで乗せてやる。長くは引き止めない。」
サイラスは一瞬、歩みを止めた。
だが次の瞬間には、何事もなかったかのように微笑し、
淡々とした声で答える。
「光栄ですね。」
そうして二人は馬車に乗り込んだ。
馬が一声嘶き、車輪がゆっくりと回り始める。
領主邸の門が静かに後方へと遠ざかっていった——。
「ブレストの様子はどうだ?」
最初に口を開いたのはエドムンド侯爵だった。
一見何気ない問いかけだが、その声音には探るような響きがあった。
サイラスは車壁に軽く寄りかかり、気だるげな口調で応じる。
「相変わらずさ。黒市の流通は安定しているし、治安もそこそこ平穏。たまにネズミどもが入り込もうとするくらいだな。」
侯爵はふっと笑い、揶揄するように言う。
「ずいぶんとあっさりした言い方だな。」
そう言いながら窓の外へと視線を移し、しばしの沈黙の後、静かに続けた。
「イザベルとフレイヤも招待を受けてな。今回の舞踏会のために帝都へ向かうそうだ。」
「……お前はどうする?」
サイラスは薄く唇を吊り上げ、気の抜けたような口調で返す。
「遠慮しておくよ。せっかくの社交の場だ、俺なんかが同行したら迷惑だろう?」
エドムンド侯爵はその言葉に一瞬動きを止め、
小さく息をつくと、低い声で問うた。
「——昨夜のことを、聞いていたな?」
サイラスは何も言わなかった。
それ自体が、何よりの答えだった。
エドムンド侯爵はふっと小さく笑みをこぼし、どこか諦観と温かさを滲ませた声で言った。
「イザベルがあれこれ言うのは、予想していたことだ。彼女はフレイヤのことしか考えていないからな……」
「お前にとって、この家は“家”とは言えないかもしれないな。」
サイラスは何の表情も浮かべず、静かに答える。
「別に、不満はない。」
エドムンド侯爵は彼をじっと見つめた。
その瞳には、理解と、わずかな感慨が滲んでいた。
「……何にせよ、お前がブレストにもたらしたものは、あの者たちが思うよりも遥かに大きい。」
「ただ……お前の“立場”がな……どうしても周囲を警戒させてしまう。」
サイラスは微かに笑い、肩をすくめる。
「侯爵閣下、そういう取り繕った言葉は不要です。」
「俺は、自分がこの家でどう見られているか、よく分かっていますよ。」
侯爵は小さく息をつき、静かに彼を見つめた。
そして、次の瞬間——
「……お前は、間違っている。」
語調が、わずかに強くなった。
侯爵はゆっくりと上体を前に傾け、
その深い眼差しを、真正面からサイラスに向ける。
「サイラス——」
「たとえお前が皇命によってここへ送られたとしても、私の中で、お前は決して“皇帝の棄子”などではない。」
サイラスの瞳が、一瞬、かすかに揺れた。
この名を——**「サイラス」**という名を、
この地で誰かに呼ばれたのは、初めてだった。
それどころか、自らすらも封じ込めていた名を、今、この瞬間に——。
——どれだけ過去を隠そうとしても、認識する者はいる。
それを思い出させるかのように、エドムンド侯爵は静かに彼を見つめていた。
やがて、侯爵は微かに息をつき、少しだけ穏やかな声で言った。
「お前は、今もなおノヴァルディア皇族の血を引く者だ。」
「世間がどう見ようと、私の目には——ブレスト家の養子という枠には収まらぬ存在に映る。」
サイラスは、わずかに首を垂れた。
そして、唇の端にかすかな笑みを浮かべる。
「……侯爵閣下、そんな言葉は、あなたらしくないですね。」
エドムンド侯爵は、ふっと小さく笑った。
「そうかもしれんな。」
「だがな——私は、お前の血筋よりも、“選択”の方を重んじている。」
サイラスは、一瞬だけ指先を動かし、視線を僅かに伏せた。
そして、しばしの沈黙の後——
「……お気遣い、痛み入りますよ。エドムンド侯爵。」
静かに、しかし確かにそう言った。
侯爵は彼を見つめながら、何も言わず、小さく嘆息する。
——どのような道を選ぼうとも、彼が“帝国の駒”としてではなく、彼自身の生を生きることを願うばかりだ。
馬車が石畳を踏みしめ、下町へと進んでいく。
その時——
銀白の髪が、朝陽の下で揺れた。
雑踏の中、ふと視界に映り込んだのは、一人の少女。
エレ。
淡い青紫の光を帯びた髪が、朝の光を受けて静かに輝く。
あまりにも目を引く存在。
サイラスの眼差しが、微かに変化する。
そして、一瞬の迷いもなく、指先で馬車の壁を二度叩いた。
「侯爵閣下、ここで降ろしていただきましょうか。」
エドムンド侯爵が、少しだけ眉を上げる。
「もうか?」
「少々、個人的な用がありまして。」
サイラスは、いつも通りの軽い口調で答えた。
侯爵は、それ以上は聞かず、淡く笑う。
「ならば、しっかりと処理するのだな——カイン。」
サイラスは無言で馬車の扉を開き、軽やかに地面へ降り立った。
そして、振り返りながら微かに頷く。
「道中、ご無事を。侯爵閣下。」
馬車がゆっくりと動き出し、遠ざかっていく。
だが——サイラスの視線は、最初から最後まで、ただ一人の少女に向けられていた。
彼女は、一体何を探している?
サイラスの唇が、ほんの僅かに弧を描く。
——この”試合”は、まだまだ楽しめそうだ。




