(138) 社交の戦場
サイラスは数人の貴族たちとの挨拶を終えると、杯を軽く交わし、そのままさりげなく身を翻した。
その足取りは終始落ち着いており、まるで先ほどの探りなど意に介していないかのようだった。
だが、群衆を抜けたその先で、彼は思いがけずエドムンド侯爵の一家と鉢合わせた。
群れの中に立つエドムンド侯爵は、相変わらず悠然とした態度を崩さず、手にした杯を回しながら、サイラスとエレを静かに見つめていた。
その瞳には、読み取りにくい何かが潜んでいる。
「王子殿下。」
侯爵は穏やかに口を開いた。
「もう少し様子を見るかと思っていたが……思ったより決断が早かったな。」
サイラスは軽く笑みを浮かべ、さらりと応じる。
「待っても状況は変わりませんからね。」
彼の視線は侯爵の手元の杯をかすめ、皮肉を込めたように続けた。
「侯爵、驚いてはいないはずでしょう?」
「そうだな。」
エドムンドは微笑み、肯定した。
「君は昔から、絶妙なタイミングを選ぶ男だった。」
エドムンドの冷静さに対し、イザベル夫人の表情には幾分かの複雑な色が浮かんでいた。
彼女はサイラスをじっと見つめ、その瞳にかすかな探るような光を宿す。
「この数年、あなたは権力争いに背を向ける養子だとばかり思っていたわ。」
イザベルはゆっくりと言葉を紡ぐ。
その口調は貴族特有の優雅さを保ちつつも、言外に強い意味を含んでいた。
「まさか、今こうして我々の前に立つのが、帝国の王子だとはね。」
サイラスは眉をわずかに上げ、唇に淡い笑みを浮かべた。
「そうおっしゃると、夫人には失望されたような気がしてきます。」
「失望なんてことはないわ。」
イザベルは杯に口をつけ、軽く首を振る。
「ただし……この舞台に立ったからには、相応の責任を負う覚悟は必要よ。それは理解しているわね?」
サイラスは再び微笑んだが、それ以上の返答はしなかった。
イザベルが本当に問いたいのは「責任」ではなく、今の彼の「立場」と「本気度」なのだということを、彼は十分理解していた。
その一方で、フレイヤの表情には、明らかな混乱と戸惑いが滲んでいた。
彼女は長衣の裾を強く握り締め、サイラスとエレの間を交互に見つめる。
「いったい……どういうことなの……?」
小さく呟きながら顔を上げ、エレに目を向ける。
その瞳には、驚きと困惑、そしてわずかな嫉妬が混ざり合っていた。
イザベルはその視線を辿り、しばしエレを見つめた後、意味ありげな笑みを浮かべた。
「エレさん、今宵のあなたは実に見事ね。なるほど、殿下の舞の相手に選ばれるのも納得だわ。」
その声はあくまでも優雅だったが、よく聞けば、その奥には明らかな試すような響きがあった。
エレは静かに微笑みながら応じる。
「身に余るお言葉です、夫人。」
「ただの舞の相手、というわけではないのでしょう?」
イザベルは眉をわずかに上げ、さらに問いを重ねる。
「この舞踏会に立つということは……帝国の社交界に足を踏み入れる覚悟がある、ということかしら?」
エレはわずかに間を置き、すぐに微笑み返した。
「それは、殿下が私の手を引いてくださるかどうかにかかっています。」
「まあ。」
イザベルは愉しげに目を細めると、サイラスに一瞥をくれた後、再びエレに向き直る。
「それなら――私たちがその道を整えて差し上げましょう。」
そう言って、イザベルは手を軽く振った。
その合図で、一人の豪奢な長衣を纏った貴婦人が近づいてきた。
その後ろには数人の上流貴族の令嬢たちが続く。
「こちらは、帝国社交界でも指折りの影響力を持つご婦人方とご令嬢たち。彼女たちを知ることは、あなたにとっても大きな助けになるはず。」
イザベルは優雅な口調で語る。
「なにせ、ここは男性だけの戦場ではありませんから。」
その言葉には、どこか二重の意味が込められていた。
一方ではエレに社交界への「道」を与えるように見せながら、
他方では――「殿下の傍に立つ者」としての責任と試練を与えようとしているのだ。
エレはそれを理解していた。
帝国に身を置く限り、このような視線や駆け引きは避けられない。
そしてイザベルの申し出は、試練であると同時に――一種の「配置」である。
それはエレを社交界に引き入れ、サイラスの傍から引き離し、
別の形の力関係に組み込もうとするもの。
サイラスは、そのやり取りを静かに見守っていた。
止める素振りも見せず、ただ微かに眉を上げて、どこか意味深な笑みを浮かべる。
「随分とご親切ですね、夫人。」
サイラスの声にはどこか冗談めいた響きがあった。
「ただ、エレはあなたが思っているよりも聡明ですよ?
本当に、彼女をあの人たちに託してよろしいのですか?」
イザベルは涼しげに微笑んだ。
「準備のできている者には、機会を与えるべきでしょう?」
エレはサイラスを一瞥し、そして静かに微笑んだ。
長衣の裾を持ち上げ、優雅に一礼する。
「では……どうぞご指導のほど、よろしくお願いいたします。」
サイラスは、彼女の背中が貴婦人たちに囲まれていくのを見つめながら、
唇の端をほんのわずかに上げた。
その眼差しには、深く読めない光が宿る。
――この舞踏会は、エレにとってもまた、一つの戦場なのだ。




