(137) 舞踏会の中心で
煌びやかな照明が照らす舞踏会の中心、サイラスとエレは優雅にステップを踏みながら、音楽の旋律に合わせて静かに回っていた。
周囲の貴族たちは談笑しながらも、誰もがこの注目の二人に視線を向けずにはいられなかった。
エレの視線は無意識のうちにサイラスの胸元へと落ちる。
そこに掛かる琥珀石のペンダントが、照明の下で柔らかな光を放っていた。
彼女は覚えている――ブレストの町で、サイラスがこのペンダントを身につけていたことを。
当時は深く気に留めなかったが、今ではその意味を知っている。
サイラスは彼女の視線に気づき、口元を緩めて冗談めかしく囁いた。
「そんなにじっと見つめて……舞踏相手の顔を見るのが礼儀じゃないのか?」
エレはその調子に思わず吹き出し、顔を上げる。
「ただ思い出してただけ。あの時は、まさかそれが王族の証だなんて思わなかったわ。堂々と身に着けて歩いてるあなたにも驚いたけど。」
「……ふふ、」
サイラスは少し考え込むように笑みを漏らし、どこか懐かしむように目を細めた。
「実のところ……今日まで、これは母の形見だと思っていた。」
その言葉に、エレは一瞬動揺し、ステップを一歩踏み外してしまう――
だが、サイラスの手がすぐに彼女の腰を支え、優しく導いて正しいリズムへと戻してくれた。
舞の流れには、微塵の乱れもなかった。
「集中してるようで、してないな。」
彼は軽くからかうように言ったが、その声には不思議と柔らかさがあった。
エレの胸の奥がきゅっと締めつけられる。
あの夜見た夢、あの断片的な記憶、そして絶望に満ちたあの瞳……サイラスの母に関する疑問は尽きない。
けれど、今ここでその話題を口にするのは違うと直感した。
彼女は、彼に自分の動揺を気取らせたくなかった。
だからこそ、微笑みで包み込み、さりげなく話題を変えた。
「……ちょっと驚いただけよ。」
そして、少し首を傾げて彼を見つめる。
「舞踏会なんて普段出ないくせに、随分と踊り慣れてるのね。ちょっと意外。」
サイラスは眉を上げ、気だるげな笑みを浮かべる。
「こんなことも覚えられないようじゃ、今日みたいに君を誘って踊るなんて到底できなかっただろう?」
その言葉にエレはふっと笑い、目を細める。
「それは……ありがたくお礼を言わないといけないわね、王子殿下。」
その口調は少しおどけていたが、心の奥では、はっきりとわかっていた。
この一曲の舞の後には、もっと複雑な「帝国の舞」が待っているのだと。
やがて、曲の最後の旋律が静かに消え、サイラスはエレをエスコートして舞を締めくくる。
場内からは、貴族たちの礼儀正しい拍手が鳴り響く。
この一曲によって、サイラスは帝国の社交界への第一歩を堂々と踏み出し、
そして、エレの存在もまた、すべての人々の記憶に深く刻まれたのだった。
二人が舞踏の輪から外れると、間もなく数名の貴族たちが杯を手に近づいてきた。
その視線は探るようであり、笑みの裏には計算が見え隠れする。
サイラスはまったく動じる様子もなく、給仕が差し出した杯を片手に取り、赤ワインを静かに揺らした。
そのまま肩越しに振り返り、彼に近づいてくる帝国の有力者たちを悠然と見つめる。
彼の瞳には、どこか楽しむような色が混じっていた。
➤ 第一の試金石:軍部および武断派の代表
深紅の金刺繍が施された外套を纏った、屈強な体格の貴族が最初に口を開いた。
その装いは、帝国軍の上層部を示す象徴の一つだった。
彼はワインを掲げ、口調は一見すると軽やかだったが、どこかに含みを持たせた声音で言う。
「殿下、帝都で正式にお姿を見せるのは、これが初めてですね?」
“殿下”という呼び方が、そのまま彼の立場を表していた。
サイラスを王子として認め、皇帝の決断を支持する立場にある、という意思表示だ。
サイラスの瞳がわずかに揺れる。
彼も杯を掲げ、静かに相手と乾杯を交わした。
「確かに、公の場での登場は初めてですね。」
唇にワインを運んだその瞬間、貴族は身体を少し前に傾け、声を潜める。
「殿下、長年辺境におられたならご存知でしょう……
帝国の繁栄は、婚姻や外交によってではなく、鋼と火の力によって築かれてきたということを。」
それは明らかな探り――
彼らは、政治的な均衡や貴族間の綱引きよりも、軍事的手段による統治を望んでいることを示している。
サイラスはその意図を察しつつ、杯をゆっくりと回した。
その瞳には、一瞬だけ読み取りづらい光が宿る。
「繁栄も衰退も、単一の手段に依存するものではありません。
大切なのは、その時々に最も適した戦略を見極めることです。」
貴族は眉をわずかに上げ、その言葉の裏を読み取ろうとする。
だが、サイラスの表情は相変わらず揺るぎない。
「さすがは陛下の御子息。お言葉も実に……含蓄が深い。」
「お褒めに預かり光栄です。」
サイラスは穏やかに微笑み、再び杯を合わせた。
彼はこのやり取りの中で、軍部への明確な支持を示さなかった。
あえて曖昧な立場を保つことで、相手に判断の余地を与えた――それが彼の流儀だった。
➤ 第二の試金石:保守派貴族の視線
続いて、一人の老侯爵がゆっくりと歩み寄ってきた。
伝統的な帝国貴族の礼服を纏い、腰には緻密な刺繍が施された帯を巻いている。
その立ち姿は、保守派の典型といえる。
老侯爵は軽く頷き、落ち着いた声で語りかけた。
「殿下、かつてはエドムンド侯爵の養子と伺っておりました。
……今や、本来のご身分にお戻りになられたのですね。」
その言葉は一見、身元を祝福するように聞こえる。
だが、そこには明確な含みがあった。
「あなたは侯爵家の人間なのか?それとも皇族なのか?」
サイラスは穏やかに笑みを浮かべ、あくまでも柔らかな調子で応じた。
「侯爵がおっしゃる通り、私はブレストで育ちました。
ですが、それは私の帝国への忠誠に何ら影響しません。」
老侯爵は目を細め、彼の表情の端から何かを読み取ろうとした。
しかし、サイラスの笑みは終始変わらず、何も語らなかった。
「なるほど……賢い方だ。」
老侯爵は微笑みながら、含意を込めた口調で言った。
「ですが、賢者であればこそ、いずれは選ばねばなりませんぞ。」
サイラスは答えず、静かに杯を掲げた。
その眼差しには、かすかな冷たさが滲んでいた。
――この者たちは、皇族でさえも一つの駒としか見ていないのだ。
➤ 第三の試金石:中立派・皇帝の静観者
一連の対話の後、深緑の礼服を身に纏った伯爵が一人、穏やかに歩み寄ってきた。
彼は中立派の代表格で、常に表立った発言を避けつつも、政界では一目置かれている存在である。
「殿下のご登場で、今宵の舞踏会は一段と華やかになりましたな。」
伯爵はにこやかに杯を掲げた。
「ところで、殿下は帝国の未来をどうお考えですかな?」
その問いは、軍事でも保守でもない、あくまで穏やかな探り。
だが、サイラスの考えを測るには十分だった。
彼は一瞬だけ思案し、やがてふっと微笑む。
「伯爵のご質問は難問ですね……
ですが、私は思うのです。帝国の未来とは、外敵ではなく、内部の安定と信頼の上に築かれるべきだと。」
それは、軍事的膨張にも貴族的閉鎖にも与せず、
あくまで「帝国内部の団結」を重視するという立場をとる言葉だった。
伯爵の目が一瞬輝き、興味深そうに笑う。
「ほう……まるで帝王のようなお考えだ。」
「それは買いかぶりです。」
サイラスは穏やかに返し、再び静かに杯を重ねた。




