(133) 孤影の終焉
ヴェロニカは一歩引いた位置から、すべてを黙って見守っていた。
彼女の位置からはサイラスの額にある傷跡は見えなかったが、エレの表情とサイラスの反応、そして彼が見せた古い傷跡――それらの断片が、どこかに繋がっているような違和感を覚えた。
彼女は姿勢を少し直し、腕を組んだまま、指先で静かに自分の腕をトントンと叩く。
だが、その口を開くことはなく、あくまで「静観」を選んだ。
晩餐の空気は、知らず知らずのうちに重く沈み始めていた。
まるで水面下に潜む真実が、今にも顔を出そうとしているかのような、そんな張り詰めた気配があった。
ちょうどその時、扉の外からノックの音が響き、すぐに給仕が部屋へ入ってきた。
空になった皿を手早く下げ、新たに最後のデザートを運び込む。
銀のトレイには、蜂蜜をたっぷりと使ったケーキ、香り高いジンジャーブレッド、そして金縁のクリスタルグラスに注がれた蜂蜜酒が並べられていた。
甘い香りがふわりと部屋に広がり、先ほどまでの緊張をわずかに和らげた。
ヴェロニカは室内を一瞥し、静かに頷いた。
「そろそろ時間ですね。馬車の準備をしてきます。」
そう言って、サイラスに一瞥を送りながら軽く顎を引いた。
「ご苦労さま。」
サイラスは気怠げに手を振った。
「殿下、戻ったら務めが山積みですよ。それに……明日は地獄ですからね。」
淡々と言い残すと、ヴェロニカはドアを開け、音も立てずにその場を後にした。
部屋には再び、サイラスとエレの二人だけが残された。
エレは目の前の蜂蜜ケーキに視線を落とした。
そのデザートは、エスティリア地方で広く親しまれている名物であり、先ほどの煮込み鴨肉もそうだった。
改めて部屋の内装を見渡すと、一見すると帝国風の装飾に見えながら、随所にエスティリア文化が垣間見える。
細部まで緻密に計算され、用意された空間――
彼女はふっと笑い、再びサイラスに視線を向けた。
「……この店、やっぱり意図的に選んだのよね?」
サイラスはゆっくりと杯を回しながら、琥珀色の瞳を光らせる。
「どう思う?」
彼の問い返しに、エレは目を伏せ、静かに笑う。
「ありがとう、細かいところまで気を配ってくれて。」
その言葉に、サイラスはわずかに口角を上げた。
「気に入ってくれたなら、それでいい。」
エレはフォークを手にし、デザートに手を伸ばそうとした――が、ふと気づく。
サイラスが手を止めていた。まるで、深く考え込んでいるかのように、杯の縁をゆっくりとなぞっている。
彼女はフォークを下ろし、そっと尋ねる。
「どうしたの?」
サイラスはしばらく沈黙していた。
そして、ようやく口を開く。
「……以前、君が俺の母のことを聞いたよな。」
エレの指先がわずかに震える。
呼吸が浅くなり、心拍が早まるのが自分でもわかった。
「……あれは、俺が向き合いたくなかった過去の一つだ。」
彼の声は低く、笑うような調子を含んでいたが、その内にあるものは笑いではなかった。
「今、全部話すよ。」
エレは言葉を飲み込み、ただ黙って彼の言葉を待つ。
「彼女は、死んだ。」
淡々としたその一言には、計り知れない重みがあった。
「殺された。俺の手で。」
その瞬間、部屋の空気が止まった。
エレの体から、すべての力が抜け落ちそうになる。
「……俺が、母を殺した。」
フォークが皿の上に落ち、甲高い音を響かせる。
エレは目を見開き、何も言えず、何もできずにいた。
「幼い頃の話だ。」
サイラスは静かにワインを回しながら語る。
「一度、何かが壊れて……屋敷の中は、まるで屠殺場のようだった。
あの夜の記憶は断片的で曖昧だけど――母は血溜まりの中に倒れていた。
そして、俺の手には……血がべっとりと付いていた。」
エレの脳裏に、あの夢がフラッシュバックする。
真っ赤に染まった視界。逃れられない恐怖。そして――
(……その目は、存在してはならない)
下唇を噛み締め、感情を押し殺す。
「当時は、暗殺だったと報告された。」
サイラスは小さく笑った。
「だが成長するにつれ、断片が繋がってきたんだ。……俺の記憶が戻り始めて。」
彼の目が僅かに細められる。
「屋敷の中にいた全員――あの夜、俺の手で死んだ。」
エレは拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込むほど力を込めた。
だが、それでも彼女は言葉を発せなかった。
彼が口にしたのは、きっと「すべての真実」ではない。
けれど、それは――
サイラスが、彼女に「語る覚悟を持てた」真実だった。
それは冷酷な告白ではない。
それは、あまりにも苛烈な「自己裁き」だった。
彼に「それは違う」と伝えたかった。
誰かが彼を誤解させたのではないかと問い質したかった。
あの頃の彼は、まだほんの子どもだったのだと伝えたかった。
けれど、エレは理解していた。――その言葉は、彼にとって既に意味を成さない。
彼は理解していないのではなく、最初から自分を許すつもりなどなかったのだ。
沈黙が、部屋の中に静かに広がっていく。
揺らぐ燭火だけが唯一の音を立て、サイラスの冷たい横顔を淡く照らしていた。
やがて、エレはようやく口を開いた。
声は、今にも何かを驚かせてしまいそうなほど静かだった。
「……それでも、自分を憎んでるの?」
サイラスの手が止まり、僅かに間を置いてから、ふっと微笑むようにして答えた。
「自分を憎んでいるか……?」
低くくぐもった声。
どこか疲れ切った響きがあった。
「違うよ、エレ。」
彼はそっと俯き、長い睫毛が頬に影を落とす。
「ただ……生きていい理由が、最初から自分にはないと思っていただけさ。」
エレの胸が、ぎゅっと締めつけられるように痛んだ。
何かが喉の奥につかえたようで、息をするのも苦しくなる。
目の前の彼に手を伸ばしたい衝動に駆られながらも、彼女の手はほんの僅か震え、やがて机のクロスの端をそっと握るだけにとどまった。
「……まだ、食事は終わってないわよ。」
深く息を吸い、平静を装った声でそう言った。
「せっかく、あなたが準備してくれたデザートなんだから。」
サイラスは一瞬呆気に取られたように彼女を見つめ、それから静かに笑った。
「……それって、慰めのつもりか?」
エレはフォークを手に取り、蜂蜜ケーキを一口頬張ると、にこりと微笑んだ。
「慰めなんかじゃないわ。ただ……こんなに丁寧に用意された料理を、残すなんて失礼でしょう?」
彼女は慰めの言葉を選ばなかった。
ただ黙って、傍にいることを示した。
――たとえ世界が彼に「生きる資格」を与えなくても、彼女が与える。
サイラスは、デザートを口にする彼女をしばらく見つめていた。
まるでこのやり取りの重みなど微塵も感じていないかのように、エレの様子は自然で穏やかだった。
可笑しいような、哀しいような、不思議な感情が胸に浮かぶ。
サイラスはワインを飲み干し、静かに息を吐いた。
――これは初めてだった。
自分の過去に縛られず、誰かと向き合えた瞬間。
試すつもりだった。
彼女が罪悪感を見せるか、慰めようとするか――
それを口実に「やっぱり俺のことは分からない」と、心の壁を再構築するつもりだった。
だが、彼女はそのどちらも選ばなかった。
彼の過去を変えようともせず、ただ黙って受け止めた。
その無言の選択が、何よりも重かった。
そして、彼はようやく理解した。
彼女は本当に自分を「理解してくれた」のだと。
そして、誰よりも「選んでくれた」のだと。
その時、扉の外から控えめなノックが響いた。
ヴェロニカの声が落ち着いた調子で告げた。
「殿下、馬車の用意が整いました。」
エレはハンカチで口元を拭い、優雅に立ち上がった。
「行きましょう。」
サイラスはすぐには立たなかった。
彼はエレの背中を見つめ、何かを考えているようだった。
そして、ふと彼女の手首をそっと掴み、歩みを止めさせる。
エレが振り返り、不思議そうに彼を見つめた。
「どうしたの?」
サイラスはその問いに答えず、彼女の掌を取って裏返し、そっと頭を垂れた。
そして、何の前触れもなく――その掌に、静かに唇を落とした。
その一瞬、体温のような熱が彼女の掌から染み込み、腕を伝って心臓へと届いた。
驚いたように彼を見つめるエレに、サイラスは普段とは違う、柔らかな、そして少しだけ寂しげな笑みを向けた。
「……君は、人の心の防壁を壊すのが、本当に上手い。」
囁くような声は、感情を読ませないようでいて、どこか安心した響きを含んでいた。
エレはそっと彼の手を握り返す。
何も言わずに、ただその力に答えた。
彼の指先が僅かに震え、それでも彼女の手を強く握り返す。
この晩餐が、もしかすると――
過去の彼にとっての「最後の晩餐」だったかもしれない。
だが、今この瞬間。
サイラス・ノヴァルディアは、生まれて初めて知ったのだ。
自分は、もう独りではないということを。
-第三章 (完) -




